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人は疑いを抱かずには生きられません。とはいえ、疑い始めるときりがありません。ある知識を得るための疑い続ける姿勢は、探求者としては必要なことかもしれません。しかし、信頼を築き上げていく人間関係においては、互いの関係を破壊する非常に致命的なものです。時には損をしたくないから、または騙されたくないから疑うこともあるでしょう。しかし、疑いを持ち始めると人を信じられなくなって、むしろ自分がもっと苦しい思いをするかもしれません。
私たちクリスチャンは疑いによってではなく、信仰によって生きるべきであると誰もが知っています。またその信仰も、可能な限り確信に満ちた信仰、つまり、どのような環境や条件に置かれていても、揺るがない信仰によって生きるのが重要であると知っています。
しかし、マルティン・ルターのような宗教改革を成し遂げた偉大な信仰者でさえ、一時的にある疑いにとらわれ、すべての計画を諦めようとしたことがあったと言います。ですから、信仰によって生きるクリスチャンに疑う思いが生じることは、珍しいことではありません。
ただし注意すべきことは、疑いが生じることと信仰を離れることは別だということです。私たちはさまざまな状況で生じる疑いを克服し、信仰により勝利しなければなりません。疑いと信仰は対極の概念のように見えますが、実はそうではありません。例えば、律法と恵みが対極の概念ではなく、律法が私たちを恵みへと導いてくれるように、疑いもまた、私たちを信仰へと導く過程になることを覚えておくべきです。むしろ、最初から一度も疑うことなく信仰に導かれるほうが珍しいことなのです。疑いがあるからこそ、私たちは信仰を持っているのです。
特に信仰によって生きようとする人に疑いが生じるのは、望んでいなかった苦しい困難に直面した時が多いようです。避けたい困難が訪れると、納得しがたく、受け入れられない時が多いものです。このような時、信じる人にも疑いが生じます。
バプテスマのヨハネも牢屋に閉じ込められた時、イエス様がまことのメシアなのかを疑いました。イエスはまことのメシアだと確信し、宣べ伝えたヨハネでさえ、一時的に疑い、イエス様に確認を求めたことがあったのです。しかし、ヨハネはイエス様の答えを聞いて疑いを克服し、殉教の道を歩みました。疑いを克服する信頼の再確認こそ、信仰に導く重要な要素なのです。ですから疑いが生じる時には毎週の礼拝と牧場の交わりを通して、神様との信頼関係を再確認する直接的・間接的な神体験をすることを願います。
趙 南洙師
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今日、さまざまな不当な差別の中で苦しみながら生きている人々がいます。人種差別、男女差別、職業差別、世代間差別など……。しかし残念なことに、聖書に登場するキリスト者の中にも、教会の中で差別をあおり立てたり主張し、自分の聖さや優越感を誇示しようと、陰で教会の分裂を企てる人々がいます。それは誤った律法主義にとらわれ、優越感や偽善的な聖さを示そうとする自己中心的な心が先立っているからです。
差別を助長する未熟な私たちの姿をご覧になる神様はこう語られます。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:28)「(神は)私たちと彼らとの間に、何の差別も設けられませんでした。」(使徒15:9)「しかし、もし人をえこびいきするなら、あなた方は罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」(ヤコブ2:9)
したがって、私たちの教会では、主日礼拝の代表祈祷を導く人を男女の区別なく、すべての牧者たちが順番に壇上に上がって導いています。洗礼式でも、男女の差別なく、その人の救いと洗礼のために祈り、仕え、献身してきたその牧者が、洗礼を受ける牧場メンバーの傍らで聖い水の入った洗礼器を支える奉仕をします。
しかし私たちが忘れてはならないことがあります。それは、「教会の中に差別はあってはならないが、違いは必ずある」ということです。なぜなら、教会のかしらである主が、初めからそれぞれに固有の働きと役割を与えられたからです。たとえば、男性と女性の間には差別はあってはなりませんが、必ず違いはあります。もし男性と女性の違いを認めず、同一視した性平等を主張するなら、私たちはそれを明確に反対すべきです。なぜなら聖書は、男性と女性を創造されたときからその違いを明らかにしているからです。
また、牧師と信徒の間にも差別はありませんが、その働きの役割分担には明確な違いがあることをお互いに認め、尊重することが必要です。もし聖書に従わず、この違いを否定するなら、教会共同体の秩序が崩れ、混乱が生じ、互いに衝突して苦しむことになるでしょう。
ですから、私たちの教会は主のことばにしっかり耳を傾けなければなりません。「キリストご自身が、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだ(教会)を建て上げるためです。」(エペソ4:11–12)
趙 南洙師