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 「祝福」という言葉は、誰かが幸せになるように願うという意味です。幸せを与えてくださる神様に「○○に幸せにしてください」と願うことが祝福です。つまり、祝福とは人が人のために神様に願うものです。
 したがって、「神様、○○を祝福してください」という言い方は、意味としては「神様、○○が祝福を受けるように祈ってください」となり、ややわかりにい表現になります。なぜなら、祝福の源であられる神様は、誰かに「この人が祝福を受けるようにしてください」と頼むお方ではないからです。神様は幸せを与える創造主です。
 ですから整理すると、祝福とは、人が人のために神様に幸せを願うことです。「私はあなたを祝福します」という言葉は、「あなたのすべてのことがうまく行きますように、神様があなたを幸せにしてくださるように祈ります」という意味になります。ゆえに「神様、○○を祝福してください」というよりも、「神様、○○を幸せにしてください」と祈ることがよりわかりやすいでしょう。
 一週間後にある受難週(3月30日〜4月4日)の三つ撚り特別早天祈祷会が、互いに祝福し合う機会となることを提案します。特に子どもと一緒に礼拝堂に来て、「神様、この子を幸せにしてください」と神様に祈ってほしいと思います。なぜなら、私たちは子どもに祝福を与えられる存在ではないからです。なぜなら、私たちは子どもに最善を尽くすことはできても、その子の人生に祝福を与えることのできる存在ではないからです。祝福は神様が与えてくださるもの、いや、そのお方こそが祝福の源なのです。
 祝福の言葉と祈りを受けて育った子どもと、そうでない子どもの人生には大きな違いが生まれます。子どもは親の言葉の実を食べて育ちます。親が習慣的に口にする小言や不満の言葉を聞いて育つ子どもは、その影響を受けやすくなります。特別早天祈祷会に子どもを連れてきて祝福の祈りをしてあげることが、子どもにとっては一つの「行事」に見えるかもしれませんが、この一週間、子どもたちを思いきり祝福してあげてほしいと思います。
 そしてこれをきっかけに、これからは私たちの家庭の中で、愛する家族を祝福する言葉が川の流れのようにあふれるようになってほしいと願います。私たちの幸せを願っておられる神様は、私たちの言葉を用いて働いてくださることを、どうか忘れずに歩んでいきましょう。

趙 南洙師



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 あるクリスチャン企業として知られている会社に勤めていた人が、次のような話をしていました。「私たちの会社はキリスト教の価値観を大切にする会社なので、ここで働くと、むしろ教会に通わないでいる方が大変になります。」しかし、10年以上この会社で働きながら教会に行かない人がいました。その人に、どうしてそんなに頑なに耐えられるのかと聞いてみたら、こう答えたのです。「クリスチャンたちの生活を見ると、私より優れている点が一つもないので、キリスト教を信じたいと思えなかったのです。」残念ながら、多くのクリスチャンの生活は未信者にとって魅力的に見えず、イエス・キリストを信じるどころか、かえって拒むようになってしまうことがあります。
 しかし不思議なことに、聖書的な教会の姿を回復しようとする家の教会では、人々が変えられていきます。信じていなかった人が主イエスを信じて変えられた姿を見て「自分もイエス様を信じたい」と思うようになったという証をよく聞きます。なぜでしょうか。
 それは家の教会が、聖(宗教的)と俗(世俗的)を区別しないからです。私たちは、家庭生活や職場生活も、教会生活と同じく、自分に任された奉仕であると考えています。ですから、家庭では親として、子どもとして、また配偶者として誠実に生きようとし、職場でも上司として、社員として最善を尽くそうとします。そうすると、生活が少しずつ変えられていきます。
 少なくないクリスチャンが、罪悪感に苦しみながらも、みことばのとおりに生きる勇気を持てずにいます。このような方にとって日曜日は、霊的なお風呂に入る日のように感じられるでしょう。日曜日に礼拝堂に来て、一週間の罪を悔い改め、牧師の説教を通して叱られ(?)、少し清められた気分になります。そして月曜日になると社会へ戻り、また同じ生活を繰り返します。
 しかし家の教会の信徒たちは、説教を実生活に適用しようとします。それは教会と世の中の間に「牧場」という緩衝地帯があるからです。世の中に出て、みことばを実践する前に、まず牧場の仲間と練習することができるからです。もし世の中でどのようにしたら、みことばのとおりに生きられるのかわからないときは、牧場の集まりで知恵を求めることができます。失敗して傷ついたときには、牧場に行って慰めを受け、癒やされることができます。
 家の教会の信徒にとって日曜日は、お風呂の日ではなく、霊的に充電される日です。日曜日に示されたみことばを頂いて世の中に出て行って戦いながら生きます。そして、力が尽きたときには、再び主日礼拝に来て神の臨在を体験し、慰めを受け、みことばを通して、新しく歩み出す力をいただきます。日曜日は、そのために充電する日なのです。もし霊的な充電がうまくできていないなら、礼拝堂を離れる前に、もう一度示されたみことばを心に刻み、新しく歩み出してみてください。

趙 南洙師