日本語の週報 ダウンロード↓↓
韓国語の週報 ダウンロード↓↓

数年前から、こんな話をよく聞きます。それは、若者たちが見せつけるようにタバコを吸っても、叱る大人が少ないということです。注意をすると、子どもたちが殴りかかってくる可能性もあるため、むしろ大人が目をそらして通り過ぎることが最善だと言われています。
かなり前にこんな新聞の記事を読んだことがあります。バスの中で、ある老人が少年に「高齢者席を譲りなさい」と叱りました。すると少年はバスを降りたあと、地下階段を降りていく老人の背中を押し、老人は階段の下まで転げ落ち、脳しんとうで亡くなってしまったというのです。少年は「イライラしたから押した」と供述したそうです。
子どもの過ちを正してあげられる場所が学校です。しかし先生たちも、すでに指導をあきらめてしまっていると言われています。「寝る子は寝て、騒ぐ子は騒ぎ、注意を向けてくれる一部の生徒だけのために授業をしている」と。体罰でもしようものなら、親が教師を訴えると言って押しかけてくるからです。
問題は、親の関わり方にもあるのではないでしょうか。誤った愛が子どもを誤った方向に放置してしまう場合があります。親は自分の子どもに問題があるという事実を認めません。悪い友達と付き合ったせいだと思います。「自分の子どものせいで近所の子が悪くなった」と言う親に会ったことがありません。十代の子どもたちが酒を飲み、タバコを吸い、性行為をしているという話を聞いても、「うちの子はそんなことはしない」と信じて疑わない親も少なくありません。
二種類の親がいます。外でケンカをして帰ってきたとき、子どもを連れて行って相手に謝らせる親もいれば、相手の親を探して文句を言いに行く親もいます。子どもを守る愛情はどちらの行動に表れているでしょうか。
私は、親たちは先生方の味方として協力していただきたいと思います。特に教会ではなおさらです。たとえ先生が本当に間違っていた場合でも、まず子どもを注意深く導くことが大切です。そして静かに教師に会って、問題の解決策を一緒に考える姿勢を持ってほしいと思います。子どもの意見にだけ耳を傾け、教会や先生のせいにしてしまうと、かえって子どもを支える機会を失ってしまうことがあります。実際、「親たちのせいで生徒を厳しく指導できない」と先生たちのため息について話すのをよく耳にします。そのため、うつ病に苦しむ先生が多いのです。
私たちの教会の信徒の皆さんには、心からわが子を愛する親になってほしいです。
趙 南洙師
日本語の週報 ダウンロード↓↓
韓国語の週報 ダウンロード↓↓

私は自分が祝福された人間だと思っています。教会をはじめとした私に与えられた環境に試練がなかったわけではありませんが、生涯を通して良い方々に多く出会うことができ、すべてが神様
の恵みだと思い、感謝しています。
ところが、以前、天国に行ってきたと語る方の証しを聞いたことがあります。よく聞いてみると、大きな教会を牧会された牧師たちは、天国ではあまり大きな報いを受けられないのだと言っていました。本当にその方が天国に行ってきたのか、その真偽は確かめようがありません。しかし、私自身も、成功したと思われる牧師たちがそれほど報いを受けられない可能性も十分にあると考えています。なぜなら、教会のかしらである主イエス様がおられなくても、人々が多く集まる教会をつくることは可能だと考えてしまうからです。
主はこのように言われます。「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』(マタイ7:22–23)」
このみことばは、主がおられなくても不思議な力が現れ、成功しているように見える牧会が可能であることを示唆するイエス様の言葉です。また、使徒パウロはこう言います。「むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。」(第一コリント9:27)使徒パウロは、あれほど熱心に福音を伝えた後でさえ、自分が見捨てられることを恐れながら生きている、と告白しているのです。
そのため私は最近、早天祈祷の際に自分自身を省みる時間を多く取っています。魂の救いのためだという教会の働きの動機が誤っていないかを確かめます。次世代を育むためだという学校の運営が、果たして誰のためなのかを深く考えるようになりました。成功の奴隷にならないように注意しています。主の御心であるならば、命をかけて従おうと決心しています。主がやめよと言われるなら、教会も、牧会も、学校も、私の人生のすべてを手放すと繰り返し確かめております。教会の牧者や信徒たちは神の前で多くの報いを受けるのに、主任牧師である自分が報いもなくみすぼらしい姿で立つことになるなら、どれほど惨めなことでしょうか。召されたところで用意された賞を受けようとして熱心に走り続けた使徒パウロのように、この牧師も成功に見える過去にとらわれず、今日の目標に向かって歩み続けたいと思います。
趙 南洙師