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 旧約聖書民数記22章を見るとお金目当てに預言者をしていたバラムと言う人物がいました。そして、Ⅰサムエル記2章を見ると祭司のエリの息子たちの性的堕落した内容が記録されています。21世紀になっても教会で教職として仕えるスタッフがお金や異性問題でスキャンダルを起こすニュースは絶えないことです。そのようなスキャンダルは厳しく責任が問われる必要があります。しかし、これらとは違ってどんな教会にもある問題があります。それは、牧師と信徒の間にある葛藤です。そもそも何で牧師と信徒の間に葛藤が生まれるのか。私が今いる教会と過去にいた教会と合わせて見る実例は以下のようになります。

  • 牧師が温かく挨拶をしてくれなかった。 
  • 牧師が私の名前を何度も間違えた。
  • 牧師は期待していたほどの人格の持ち主ではなかった。
  • 牧師の説教(神学)に同意しない部分があった。
  • 牧師が説教を通して私の罪を責めて来たと思った。 
  • 牧師が私のソーシャルワークにそれほど関心を持ってくれなかった。
  • 私が牧師にプレゼントした本を牧師が読んで教会に導入してくれなかった。
  • 牧師は私が好きな奉仕をさせてくれなかった。(例:会計、賛美チームなど)
  • 牧師が主日学校(子どもの信仰教育)にそれほど力を注いでなかった。
  • 牧師は罪を犯す信徒をすぐに注意し戒めなかった。
  • 牧師は罪を犯す信徒を叱責した。 “信じられない!” 
  • 牧師の罪を指摘したら牧師と距離感が出来た。

 これ以外にもあと10個は言えますが、私が語ろうとするポイントは一つです。牧師と信徒との間にはちょっとしたことで葛藤が生じえます。ある牧師が言いました、“説教をこう語っても信徒が傷つくだろうし、だから柔らかく語るとそれを嫌いな信徒がいる。もう私は沈黙するしかない!” 私が皆さんに知って欲しいのは、牧師の立場の難しさです。ヒューストンで長年牧会したチェ牧師が言いました。 “私は信徒たちとスポーツはやりません。なぜか?それは信徒にスポーツで勝ったら、‘なに、この負けず嫌いな牧師は!’と思われ、負けても、‘なに、この運動神経のない牧師は!’と馬鹿にされるから”だと言っていました。 牧師の立場は出来ても批判、出来なくても批判される場合が多くあるからです。ファッションがダサくても批判、流行りの物を身に着けていても世俗的だと言われるのが牧師です。私の皆さんへのリクエストは2つです。1)牧師がいつも霊的にスーパーマン状態ではないことを覚え祈って支えて下さい。2)牧師と信徒たちが常に互いを尊重し愛し合えるように祈って下さい。 

 チョ・ドリュー師

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 箴言23:13-14「子供を懲らしめる(戒める)ことを差し控えてはならない。むちで打っても、死ぬことはない。あなたがむちでその子を打つなら、その子のいのちをよみから救い出すことができる。」

 私は今年で40ですが、私の幼少期は誰もが叱られる時にムチで打たれていた時代でした。私が幼少期を過ごした1980年代の韓国では家だけでなく、学校や塾、また教会内主日学校でも体罰は当たり前のようにありました。逆に今は韓国でも日本でも教師が体罰を与えると訴えられることになるほど時代は変わりました。この変わり目を生きる私たちは子供たちをどのように教育すべきでしょうか。

 高校までは厳しい親の元で育った見た目は優等生の学生が、親の目が届かない大学の寮に入ると、突然毎週末酔っぱらい夜遊びをするようになった話は良く聞きます。実際に私の周りにもこう言う人は何人もいました。高3までは優等生だったのに一体何が起きたのでしょうか。実は内側にあったものが外側に出ただけなのです。人は厳しくムチで治められると、内心は違っていても一応外側は優等生として育つことが出来ます。そして‘ムチ’を避ける優等生振りを習得して行くことも出来ます。しかし、そのムチから自由になった瞬間本来の姿に急変するのです。

 子どもに‘ムチ’を打ちながら、無理やり「“ごめんなさい”と謝りなさい!」と叱るのは一時的に効果があるかも知れません。ムチを逃れるために子どもは嫌でも“ごめんなさい”と言うでしょう。でも、そこに本当の反省がなければ心の成熟はありません。聖書が言うムチが最終的に目指すものは、(表だけ)行儀のよい子を育てることではなく、心から自分の罪を悟り悔い改める人を育てさせることです。代えて言えば、聖書が言うムチは、子供たちに福音を悟らせるものです。そのためには親が子どもに対して絶対的な愛を示さなければなりません。‘私があなたを叱るのは、あなたを嫌っているからではない’と言うことを幼少期から教える必要があります。親が聖書的にムチを用いる教育をするなら、それが愛のムチであることを子どもにしっかりと認識させるべきであります。

 私たちが目指す子育ては律法を守れるパリサイ人を育てるものではありません。何よりイエスキリストの愛と神の恵みを知ることによって、心変えられた子どもを育てることが子育ての目標です。そのために叱る時は、理性を失った怒りを持ってではなく、愛と恵みを持って叱れるように努めましょう。 

チョ・ドリュー師