長年、私は毎日「黙想」の時間を持ち続けています。そして信仰生活をおくる信徒の方々にも黙想を勧めてきました。ですが時々、自分を無にして静まる祈りの時が黙想だと誤解する方がいます。キリスト教の黙想は、ヨガや東洋の瞑想、または超自然的な瞑想などとは違います。これらと混同しないようにしましょう。キリスト教の黙想は、心を無にする修行ではありません。むしろ私たちのすべての部分、つまり心、感情、想像力、創造性、そして何よりも意志を活発にするものなのです。
 深い霊性の持ち主であるアントニー・ブルーム(Anthony Bloom)は、「黙想とは、神のみ守りの中で行われる、一種の率直な思考」と述べています。ですから、聖書を学問的に研究することと黙想は異なるものなのです。黙想した内容を実践に移した詩篇の記者の記録を見れば、それが明確にわかります。
 「床の上で あなたを思い起こすとき 夜もすがら あなたのことを思い巡らすときに。」(詩篇63:6)の中の「思い巡らす(黙想)」という単語には、「つぶやき」または「継続的なささやき」という意味が含まれています。つまり「同じ言葉を繰り返して言う」という意味です。また、詩篇119篇での詩篇の記者は、黙想を言及する際に、それぞれ異なる言葉を用いて「私は あなたの戒めに思いを潜め あなたの道に私の目を留めます。」(詩篇119:15)、「たとえ君主たちが座して 私に敵対して語り合っても このしもべは あなたのおきてに思いを潜めます。」(詩篇119:23)、「私は 愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ あなたのおきてに思いを潜めます。」(詩篇119:48)と語っています。
 このように、詩篇で使われているこれらの句や単語の中には、「楽しむ」、「考える」、「反芻する」、「熟考する」という意味が含まれています。これらからわかるように、キリスト教の黙想は「無にする」のではなく、「満たす」のです。これは神の御声に耳を傾けることを意味します。このような傾聴する姿勢、つまり反芻したりや思考したりする目的は、さまざまな事象に示される神のみことばの光のうちに、私たち自身を見ることなのです。これは、イエス様が旧約聖書のみことばによって、隠されたサタンの誘惑を見破ったことと同じです。
 黙想を通して神のみことばが、傷つきやすい私たちの「心」だけでなく、「感情」、そして選択をし、決断をする私たちの「意志」にも染み込むようにしなければなりません。私たちは生きているみことばご自身であるイエス・キリストに出会うために黙想します。黙想を通して私たちの存在すべて、すなわち私たちの思考と感情と熱望が神様を見上げ、畏れ、そして栄光を帰さなければならないのです。今回の受難週を通して、私たち全員が神の意志(みこころ)と対話できる深い黙想の時となりますように祈ります。

趙 南洙師



 最近、韓国の教会で行われた調査によると、家族の信仰継承に「教会より大きな影響を与えた存在は親である」という結果が出ています。自分の信仰のアイデンティティに影響を与えた要因として、66%が「クリスチャン家庭で生まれ育ったこと」と回答し、幼少期の信仰に影響を与えた人は、67%が「親(母親54%、父親13%)」だと答えました。一方、牧師と答えた人は13%に過ぎませんでした。
 次に、「信仰の深さの継承」ですが、親の信仰が深ければ深いほど、子どもにも深い信仰心が継承される傾向が明らかに多いようです。しかし、残念なことに本人たちは自分の信仰が、全ての面において親より劣っていると評価しているようです。それだけでなく、子どもへの信仰教育に関しても、自分が親から受け継いだもの(75%)より、自らが子どもに与える方が比較的低い(64%)と判断しています。子どもの信仰教育のために「非常に努力している」と答えた割合は14%に過ぎませんでした。こうした信仰継承の弱体化は、若い親の特徴として現れています。子どもの信仰教育のために努力すると答えた割合は、50代の親が71%であるのに対し、30~40代は43%にとどまりました。つまり、若い世代の親の信仰が弱まったということです。
 そのため、若い世代の30~40代の信仰をより強固にするよう支援することが、これからの教会の重要な役割であると分析しています。つまり、子どもの親のための教育が重要だという意味です。子どもの信仰生活に最も影響を与える存在は父親より、母親です。これは、子どもと多くの時間を過ごすのは父親より母親であるため、自然な結果といえるでしょう。したがって、これまで子どもの信仰教育において補助的な役割であった父親を、子どもの信仰教育の場に積極的に参加してもらうことが重要です。こうすることで、子どもの信仰教育の効果はより大きく現れるでしょう。
 それだけではなく、子どもたちが教会より最も多くの時間を過ごす家庭の中で、信仰的な活動を続けられるよう、家族の信仰のためにふさわしい教育資料を提供する必要もあります。子どもの信仰教育において、親の役割が強調される一方、子ども教育のためのガイダンスや親のための教育が不足している現実があるからです。
 今回の調査を通して特に明らかになったことは、幼少期に定期的に家庭礼拝を経験した人の方が、子どもに継承した信仰がより深くなっているということです。信仰継承には、家庭礼拝が大きな役割を果たしていることを証明するデータです。しかし、実際には家庭礼拝を週一度以上行う家庭の割合は、わずか14%に過ぎないそうです。したがって、家庭礼拝を定着させることが信仰継承と教会の将来のために非常に重要であり、同時に教会の関心と支援が急務であると言えるでしょう。家庭での信仰継承の弱体化は教会の将来に深刻な影響を与える可能性があります。30~40代の若い世代ための信仰育成と家庭の信仰活性化のために、教会はより積極的に取り組むべきだと考えています。

趙 南洙師



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 私たちがよく知っているマタイの福音書28章19-20節で語られている弟子とは、「御父と御子と御霊の名によってバプテスマ(洗礼)を受けた人」を指します。ご存知のようにバプテスマとは、「自分の罪を告白し、イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、新たに生まれ変わること」です。つまり、その人の存在自体が変えられることを「救い」と言います。
 しかし、イエス様がおっしゃる弟子になることは、単に救いの確信に留まることを意味しているのではありません。救いの確信とは、ある意味、一種の基本的な確認であると言えます。弟子になることは、「時間が経つほどに、ますます師の教えに従い、証しする継承者」であり、同時に「真理の証し者として生きること」を意味します。そのためイエス様は「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」と命じられました。弟子とは、イエス様の御教えを学び、守り、教えなければなりません。
 また同時に、弟子になることには重要な意味があります。それは、「主イエス・キリストによって救われた自分は、人生をどう生きていくべきか」という使命についての認識を明確にすることです。ですから、弟子になることは、「与えられた使命が自分の人生の目的となって生きること」を意味します。従って、イエス様の弟子として生きますと告白する私たちは、使徒パウロが告白したように、キリストから与えられた召しを走り尽くすまで、自分のいのちは少しも惜しいとは思わない(使徒20:24)「召命者としての歩み」を生きると決心するのです。
 誤解してはいけないのは、弟子訓練の一環として行われている道コースを修了しただけでは、弟子として生きているという称号が与えられるわけではないことです。イエス様に従い、その御教えを自ら守り、そして隣人にも模範を示しつつ、教えて共に守ろうとする生活のすべてが、弟子としての歩みであるということです。
 とはいえ、弟子として生きることが「牧師や宣教師になること」を意味しているわけではありません。救われたすべてのクリスチャンの究極の歩みは、どのような職業であろうが、与えられた場所でキリスト者として生きることを意味します。救いの本来の意味である「いのち」と「使命」は、貨幣の表裏のようなものです。救いの確信を持って生きる真のクリスチャンであるならば、当然、与えられた使命の道を歩む弟子としての人生を生きることになるでしょう。

趙 南洙師