先週の水曜日、最近我が教会に出席されているある姉妹のお父様が亡くなられ、招待福音教会(チャペル・マラナタ)の名前でお葬式を執り行いました。一度もお会いしたことのない方の葬儀だったため、少し迷いもありました。ですが、私はすぐに学校の業務を一旦中止して、御殿場で長年住まれたという姉妹のお父様のお葬式を執り行いました。私がもう少し早く姉妹とお父様の事情を聞いていたのであれば、一人で暮らしておられたお父様のところに訪ね、話ができただろうと残念な気持ちがしました。
 ともかく、御殿場の地域に引っ越してきた吉田神学生がお葬式に参加された地域の方々の前で代表祈祷を捧げることで、近所の方々に挨拶できる機会にもなりました。御殿場地域の魂の救いのために、主が時にかなって働いてくださった気がして、伝道に対する危機意識を持たなければいけないと思いました。
 昔、ある知り合いの先輩から聞いた、「ほとんどの教会が交わりに活気があって、楽しい教会になれば成長すると思っていますが、魂が救われないまま、いろいろな交わりやイベントだけで忙しくなっているなら、その教会は危機意識を感じるべきです。」という言葉を思い出しました。
 「魂の救い」という伝道の言葉を口にしなかったり、それが大切ではないと言う教会はどこにもありません。しかし、実際に伝道のために代価を払う家の教会や牧場は多くありません。魂の救いのために、本当に時間を割いて自分を犠牲にする人はそれほど多くないということです。それは、魂の救いが最優先となっていないからだと思います。
 いかに牧場が楽しく、交わりが有益であっても、その牧場にVIPがいないなら、危機意識を感じるべきです。VIP対する情熱と祈りと労苦がなければ、それは牧場の危機であると言えます。もし教会が単に良い交わりや信徒の必要を満たすことだけに集中していくのであれば、魂の救いから心がだんだん離れてしまう恐れがあります。なぜなら、魂の救いのためにかける時間や犠牲に対して、実りはとても遅く現れますが、プログラムやイベントを行う時にはすぐに見える有益さを感じやすいからです。そうすると、だんだん信じる人が中心となる教会、信徒の必要を満たすためにエネルギを注ぐ教会へと変わってしまいます。教会だけでなく、個人にとっても魂の救いが最優先にならなければ、教会のさまざまなことで忙しくなって、伝道がだんだん疎かになってしまいます。

趙 南洙師



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 教会で行う全ての会議は、一般的な職場や学校で行う会議とは異なります。一般的な会議では集まった人々の意見を集めます。そして、この世の人の意見はたいてい自分の知識と経験に基づくものです。人々は無意識のうちに、自分の思いと意見をとても大切にし、それを貫こうとします。そのため、思い通りにならない時には相手を非難したり、暴力的な態度を見せたりもします。
 教会の会議も、上辺はこの世の会議と同様に、人々の意見を集めているように見えるかもしれません。しかし、教会での会議はただ単に人々の意見を集めるのではなく、神のみこころを求めることを第一としています。ですから、教会の会議に参加する人は、いつも神のみこころを求める努力をしなければなりません。
 神のみこころを求めるためには、聖書の教えに目を向け、聖霊ご自身が会議の中に共におられ、導いてくださるように祈らなければなりません。そのためには、会議に参加する前に、前もって提示された議案に目を通し、会議のために祈る必要があります。そして、会議においてどのような案件を協議するかについて、参加する全員が事前に知っておかなければなりません。会議の場で新しい案件を協議することは避けなければなりません。
 また、祈りをもって会議を始めたとしても、進行する中でこの世の会議のように、自己主張だけをするのも良くありません。もし会議が、神のみこころを求める場ではなく、人間的な主張だけが集められることになってしまった場合、会議を進行する議長は少し会議を一旦中止し、神のみこころを求めるために真剣に祈ってからもう一度進める必要があるでしょう。
 教会で会議を行う時に、たくさんの祈りをささげ、神のみこころを悟ったと確信するならば、それを伝える時には愛をもって伝えなければなりません。(エペソ4:15)つまり、穏和な心と態度で発言することが大切です。もし、会議において自分の主張だけを貫こうとする議員がいるならば、他の意見にも耳を傾けるように薦めなければなりません。
 我が教会が、全信徒が参加する本日の総会を通して、神のみこころをよく見分け、そのみこころが私たちを通して成し遂げられることを願います。そして、神様が私たちを通して多くの働きをされることを、全信徒が共に体験できることを願います。

趙 南洙師



 我が教会は「道コース」という、聖書勉強を良く行う教会として知られています。しかし、聖書勉強をしたくないという理由で我が教会の正会員になることを迷っている方がおられるという話を聞いたことがあります。もちろん、そのような方に聖書勉強を強要する気はありません。ただ、我が教会が聖書の学びを強く勧めるには理由があります。
 教会はキリストのからだですから、私たちはキリストがどのようなお方で、そのみこころは何かを知らなければなりません。しかし、聖書を学ばなければ知る方法がありません。ですから、イエス・キリストを信じる人であるなら聖書を学ばなければならないのです。実際、主イエスご自身も、説教者というよりも、むしろ教える教師でした。
 また、弟子たちに最後の使命をお与えになる時も「守るように教えなさい」(マタイ28:20)とはっきりおっしゃいました。この使命に従った弟子(使徒)たちは教えましたし、また初代教会の信徒たちは熱心に学びました。(使徒2:42)よく知られている使徒パウロも、どこへ行く先々で神のみことばを熱心に教えることで、教会を建て上げました。
 聖書勉強に負担を感じているある方の心配を覚えています。聖書の学びを通して、口だけが達者になり、高慢になる人を見たことがあるという心配でした。私もその意見には同意です。まさに警戒すべきところだと思います。教会の中で誤った聖書勉強が行われているならば当然拒否しなければなりませんし、また気をつけるべきだと思います。とはいえ、聖書勉強そのものを拒否してはなりません。
 もし、聖書を学ばないのなら、私たちが父なる神とキリストを、聖霊を、どのように知ることができるでしょうか。聖書勉強のない教会生活は、霊的に無知なまま、迷信的な、もしくは単なる趣味のような宗教生活を行うほかならないと思います。
 聖書勉強の「勉強」という言葉を聞いて、単なる知識を増やす目的のものだと考える方もおられるようですが、それは誤った理解です。聖書を学ぶのは知識をたくさん増やしたいからではありません。むしろ自分の生き方が変えられることを目指すためです。ですから、高い知識や学歴は必要ありません。神様を知りたいと願う誠実な心だけで十分です。我が教会の信徒であるなら、「いのちの道」を始め、「確信の道」、「新しい道」、「成長の道」を必ず修了されることを願います。そして、牧者の方であるなら、「神体験の道」まで受講されることをお願いします。

趙 南洙師