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 互いに励まし合い、共に信仰生活を歩む牧場のメンバーの中には、様々な事情から短い間だけお金を借してほしいと頼んでくる人がいるかもしれません。いったん事情を聞いてしまった以上、メンバー同士なので知らないふりをすることは難しいと思います。とはいえ、簡単に貸せるお金があると言うのも難しいこともあり、人にはそれぞれ考慮すべき事情があると思います。断れない時には、次のように決断して貸すといいかもしれません。
 第一に、何の条件もなしに貸し出すことです。これは、信仰の家族を愛し、助けたい気持ちがあるからこそ、何の条件もなしにお金を貸し出せる場合です。返さなければならない期間の約束や条件もない貸し出しです。
 第二に、返済する条件で貸し出すことです。しかし、この場合は問題が生じる可能性が高いです。お金を借りる人は様々です。どのような状況でも必ず約束を守る人がいれば、巧妙な手口で返さない人も時にはいます。意図的に人をだましてお金を借りた後、姿を消したり、知らん顔をしたりする人もいます。また貸した人が返金するよう催促すると、逆に攻撃してくる場合もあります。このような場合、関係維持のためにお金を貸さない方が有益かもしれません。
 一方、お金を借りる人も守るべき倫理があります。それは、何より約束を厳守することです。人間と動物の違いは、言語と文書によって様々な約束ができることです。その約束を守るか守らないかによってその人の人間性が現れます。国際社会においても約束を守らない国の人々は、主に暴力的な独裁集団であるか、倫理性が欠けた開発途上国である場合が多いように思います。
 そしてもう一つ、お金を借りる行為が習慣になってはいけないということです。借りることが当たり前になったり、返さないことを正当化したりしてはいけません。いくら事情があるとしても…です。むしろお金を借りることを恐れ、慎重になるべきです。
 また、借りるよりむしろ与える人になれるように努力しましょう。「受けるよりも与えるほうが幸いである」という聖書のみことばが実現できるように、日常生活の中で節約する努力をしなければなりません。
 牧場でお金のやりとりをすることは、信仰生活の罠になる可能性があります。ですからお金を貸すとしても、返ってこなくてもいいという思いで貸してください。たいていの場合、お金も戻らないし、人間関係も失います。そのような事例が多くありました。お金を貸すことでは、決して人の心を掴むことはできません。そのお金が人間関係を難しくさせ、人を欺くからです。

趙 南洙師



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 信仰によって生きるクリスチャン同士であっても葛藤は生じるため、先月、「葛藤を通して成熟します」というコラムを書きました。今日は、私たちの中に起こるさまざまな葛藤をどのように解決すれば良いかについてお伝えします。
 第一に、葛藤を覚える対象が、信仰の兄弟・姉妹であることを覚える必要があります。ほとんどの葛藤が解消できず、むしろ争いになってしまうのは、信仰の兄弟・姉妹を敵と見なしてしまうからです。敵と見なすと感情的な要素が絡み、「なんだ、やるのか?!」という妙な闘気が出て、憎悪の念まで抱くようになります。しかしこのような心もちでは、葛藤を建設的に対処できると期待するのは非常に困難でしょう。葛藤が生じている相手が、自分とは違う思いと意見を持っていたとしても、私たちは父なる神によって兄弟・姉妹であることを覚えなければなりません。ですから、相手に向けて露骨に敵対したり、非難したりしてはなりません。葛藤があっても、それを露見させ、サタンと世の人の笑い者にならないようにすべきです。
 第二に、相手の視点を理解しようとする努力が必要です。葛藤が解消できず、争いと紛争にまでに拡大するのは、相手の視点を理解しないからです。私たちは、相手の立場をよく理解しようともせず、攻撃することが多いのではないでしょうか。攻撃された相手が理不尽に思い、激しく反発するのはしごく当然なことで、結果的に葛藤が拡大していくのです。葛藤を解消したいなら、相手を理解しようと努め、相手の言葉にも耳を傾けなければなりません。
 第三に、私たちは不完全な解決の中で生きる方法を学ぶべきです。現実で直面する多くの問題はそれほど単純ではありません。多くの問題は複雑に絡み合っています。葛藤が生じる時も、一方は完全に正しく、他方が全て間違っているということはありません。両方に正しい面と誤った面があります。ですから、双方が完璧に満足できる解決策はないと考えた方が良いでしょう。むしろ完璧な解決策を見つけようとすればするほど、葛藤をより深刻化させる結果をもたらします。不完全な解決の中で生きることは、ある意味成熟するという意味でもあります。ある人が成熟について「曖昧な中で生きる能力(the ability to live with ambiguity)」と表現しました。とても素晴らしい定義だと思います。互いのための配慮が感じられます。

趙 南洙師