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 「神体験をする」とは、単に聖書を学んで知識を増やすことで自然に身につく公式のようなものではありません。神体験をすることは、人生という「現実」の中で神様と絆を深めて生きることを決断する人々が体験する「日々のチャレンジかつ実践的な生き方」なのです。
 「今、置かれている状況」の中で神様を体験することによって、私たちは形式的な礼拝や乾いた信仰生活から抜け出し、ダイナミックな信仰の世界に入ることができます。それは私たちの内側から新たに湧き出る、神の永遠のいのちの川を体験させ、私たちを活気ある、生き生きとした人生へと変えます。
 しかし、私たちがまず理解し受け止めなければならないことがあります。それは、どんな状況であっても、神様が御自身の確かな計画の中で私たちを具体的に導いてくださると信じること、そして導かれる神を体験しなければならない理由とその方法があるということです。
 例えば、神様が私たちの内側で霊的な渇きを感じさせる時があります。その時、生きておられる神様と出会い、体験しない限り、他のどんな方法であっても自分の人生の目的や意味に対する心の渇きを満たすことはないと私たちは認めなければなりません。
 しかし、神の霊である聖霊様が介入し、語りかけ、導かれる時、私たちが完全に従うならば、私たちは今まで経験したことのない人生を体験し、生きることになるでしょう。
 アメリカの有名なスピリチュアルリーダーであるヘンリー・ブラッカビー博士は、「神を体験する人生の7つの段階」があると教えてくれています。第一は、神様は私たちのそばで常に働いておられると認識すること。第二は、神様は私たちとの愛の関係を築きたいと願われていると受け入れること。第三は、神様は御自身の働きに私たちを同労者として招いておられること。第四は、神の子どもである私たちに語りかけておられること。第五は、神の召しは私たちの信仰に危機をもたらすことがあること。つまり、従うか否かで悩ませるということです。第六は、神の召しに従う時には、修正と決断のために私たちの生活を調整しなければならないということ。第七は、従えば従うほど神様を体験するようになること…という7つの段階があることを忘れないようにと語っています。

趙 南洙師



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 もしかすると人生は、分岐点でひとつの道だけを選び続ける葛藤の連続かもしれません。どのように決断すれば神のみこころにかなうのかと、様々な物事や人間関係について悩む人は私だけではないと思います。例えば、牧者の方がクリスチャンになったばかりの方を助けようとする時、「キリストの弟子として立てるためにはどのようにアドバイスするのが適切か」などを判断するのは難しいと思います。ただひたすら仕え続けると、「霊的に子どもの信仰のままになってしまうでは」と思われますし、とはいえ道コースや教会の奉仕を強要してしまうと、「プレッシャーを感じて、牧場の交わりすら避けて離れてしまうかも」という心配があるからです。私の場合、このような時には次のように祈り、決断しています。
 まずは、どちらの選択が聖書で語られる神のみこころにより近いかを考えます。聖書で語られる「神のみこころ」とは次の三つです。一つ目は「魂を救うこと」(ヨハネ6:40)、二つ目は「イエスの似姿に変えられる聖さ」(一テサロニケ4:3)、そして三つ目は「いつも喜び、祈り、感謝すること」(一テサロニケ5:16-18)です。そのため私は、自分が二つの選択の道に立っている時、聖書で語られるこの三つの神のみこころに基づいて考え、決断をします。このようにすることで、神様は複雑な世界を生きる私の人生をよりシンプルで、明確にしてくださり、神のみこころの成就も経験させてくださいました。
 次に、どちらの道を選択しても神様が喜ばれるだろうと思う分岐点に立っている時、神の前で恥じることがないような状況の場合は、少し苦労する道や損するような道を選んだ方が良いと思います。
 私は若い頃に大きな教会の副牧師としての就任する機会と、ホームレス伝道の働きの責任を担う二つの分岐点で悩んだことがありました。その時、私のメンターから、「もっと苦労する道を選ぶことが主の前でより純粋に生きることにつながる」という助言をいただきました。それで私はホームレス伝道の道を選びました。またソウルで教会を開拓し、安定した牧会をしていたある日、日本宣教の使命を強く感じました。どの道を選んでも福音伝道者としての生き方に変わりはありませんでしたが、私はすべてを手放す日本宣教の道を選びました。振り返ってみれば良い選択だったと思います。

趙 南洙師