最近はそうではありませんが、私が子どもの頃には、働きたくてもできる仕事がなく、食べていくことで苦労する方が多くおられました。けれども今は、食べて生きることが大きな問題ではなく、健康で幸せに生きることが人生の目標となっています。ですから、すべての人々の間で「健康」が占める比重は絶対的だと言えるでしょう。
笑われるかもしれませんが、一つお聞きしたいことがあります。なぜ人間はそれほどまでに健康であろうと努力して生きるのでしょうか?もちろん、健康でなければ何事もできないのだから、健康が最優先だというのは当然のことです。ずっと前にテレビで、記者がボディービルのチャンピオンにインタビューをしていたのを覚えています。「ご立派に発達させた筋肉を、どこで使うのですか?」記者の質問に、ボディービルのチャンピオンは慌てて答えることができませんでした。筋肉を鍛えることに全力を注ぎ、チャンピオンにはなったものの、自分が鍛え上げた体(筋肉)を何に使うのかについては考えたことがなかったのです。
私は、健康そのものを人生の目標とし、それを誇りにして生きている人たちに出会うと、そのインタビューを思い出します。健康な体を維持するために良いとされるものは何でも食べ、役立つとされることは何でもしますが、健康な体で果たすべき明確な務めがあるのかと問いたくなるのです。長生きを願う人に対しても同じ感情を抱きます。私を含め、健康で長生きを願う人は多いですが、長く生きれば生きるほど、引退後に何をして生きるのかについての備えがあるのかを尋ねたいのです。
私は、わが教会の全信徒が健康であるように祈っています。でも、もっと重要なのは「健康な体で何をするのか」という祈りです。長寿についても同じです。与えられた働きをきちんと終えるために長生きするのはとても大切だと思います。しかしとりあえず、長生きすることだけが祝福だとは思えません。
私は若いころ、「60歳まで生きて、すべきことを果たしてから死ねればよい」と思っていました。ところがいま健康な70代を生きており、神様に感謝しております。そして「まだ神様が私にさせようとしておられることが残っている」と思い、与えられた務めに最善を尽くして生きようとしています。おそらく、果たすべき務めがなくなった時に、神様は私をお呼びになるだろうと思います。皆さん、健康そのものが大切ですが、健康なときに何をして生きるのかがさらに大切なのです。
趙 南洙師
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教会の聖餐式については、大きく分けて三つの意見があります。カトリック教会では、神父がパンと杯を前に祈ると、そのパンとぶどう酒が実際にキリストの肉と血に変わると考えます。16世紀に宗教改革を主導したマルティン・ルターも、ほぼ同じ考えを持っていました。しかし、同時代を生きたツヴィングリは別の考えを主張しました。パンとぶどう酒は、キリストが私たちのために死なれたこと、そして私たちのいのちの源であられることを象徴するにすぎない、というのです。
ところが、同じく宗教改革の先駆者であったカルヴァンは、さらに別の立場を取りました。パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わるわけではなく、それはキリストの死と復活を象徴するものであるが、そのパンとぶどう酒の中にキリストの臨在がある、という考えです。私もカルヴァンの見解が最も聖書的だと思います。私たちがイエス様を自分の主として受け入れたとき、外見上は何も変わらないように見えても、私たちには聖霊が臨まれ、神の霊が宿る神殿となります。
同じように、聖餐式でパンとぶどう酒を前にして祈るとき、その中にキリストの臨在があると信じます。ですから、聖餐式で食べ、飲むパンとぶどう酒は、私たちに霊的な力を与え、癒しの働きをもたらす媒介となると考えます。このような理由から、私たちは聖餐式をとても重要視すべきです。
受難週の金曜日の聖餐式であれば、キリストの死を思い起こし、厳粛で敬虔な雰囲気の中で行う必要があるでしょう。しかし、日常の主日礼拝で行う聖餐式であれば、もっと明るく喜びに満ちた心で臨むのが良いと思います。それは、復活されたイエス様に焦点を合わせ、聖餐式を祝う気持ちで受けるということです。
主の聖餐に不思議な力があることは、コリント第一の手紙11章29〜30節を見れば分かります。そこには、聖餐式に正しい心で臨まなかったために死に至った人々の話が記されています。ですから、私たちは聖餐式に敬虔な心で備えて臨み、感謝と喜びをもって受けなければなりません。
趙 南洙師
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