本日は我が教会の役員改選のための総会が開かれる日です。教会のために仕える奉仕者を選挙することは、一般的なこの世界の選挙とは、その性格と目的が本質的に異なっています。一般社会における投票の目的は、互いの意見を合わせることですが、教会における投票は、いつも「神のみこころを願い求め、それが成就される」ためであり、また、そのみこころに従うためでもあります。
 箴言16:33では「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る。」と語られます。また、使徒1:24を見ると、イスカリオテのユダの代わりの使徒を選ぶために、「そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。そしてこう祈った。『すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。』」と祈っています。このように、エルサレム教会の共同体が投票を行うにあたって、まず神のみこころを求め、そのみこころに従う祈りを捧げた後にくじを引き、マッティアを選びました。
 我が教会も聖書の教える通りに信じて、聖書の教える姿を求めて、教会が定めた規則に従って、本日の1部礼拝後に開催される教会総会において、役員10人中、2年の任期を終えた5人の改選を行います。
 私たちも「神のみこころがより良くなされるためにどの信徒を役員として選ぶのが相応しいか」と祈りながら投票を行うべきではないでしょうか。教会の奉仕者はこの世の階級や権力のように高い立場ではなく、イエス様のようにもっと低いところで、謙遜に、そしてより多く仕え、働く真実な人です。
 ですから、我が教会を愛するすべての教会員の方は、積極的に参加してください。また、自分と話が通じる人や親しい関係にある人を選ぶことなく、聖書が教える、神のみこころにかなった人を見分けることができるように、次の五つのことを質問しつつ、投票に参加してくださることを願います。
 第一、「教会と職場において信仰の実があるか、または苦難を克服して立ち上がった経験がある方か」木はその実を見てわかる(マタイ7:20)からです。第二、「人と良い関係を築くことができる方か」信仰において何より大切なのは、人との関係を回復すること(マタイ22:37〜40)だからです。第三、「一度約束をすると最後まで守る真実な人か」神の御前で仕える奉仕者は最後まで変わってはいけないから(Iコリント4:2)です。第四、「支配する人ではなく、人を立てあげる、サーバントリーダーシップのある方か」(マルコ10:45)第五、「本当に神様にのみ頼り、日々祈る方か」神様はいつも聖書通りの神のみこころを求め、従うための祈りを捧げる人を通して働かれるからです。

趙 南洙師



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 皆が同じ個性を持っているわけではないので、多くの人は自分と異なる思いを持っている人のことで辛さを覚えたり、距離をおいたり、また深刻な場合には誹謗して拒否したりもします。しかし、相手を誹謗して拒否してしまうと互いの葛藤と衝突はさらに拡大します。互いが心を合わせて一つとなることは、どの時代においても求められる事柄でありながら、簡単なことではないでしょう。
 もし、このような両極端な人たちが力を持って、自分たちだけが正しいと扇動するならば、何が正しいことで何が間違いか、見分けることが難しくなります。このような場合、クリスチャンとして自分と異なることを主張する人々の間で、「どのように分別力と包容力を育んでいくべきか。」または「両極端の深い溝の間で、どのようにしたら心を合わせ、平安を作れるか。」という課題は、私たちが向き合わなければならない大切な現実的課題であると言えます。
 もし次の三つのことを信じているのであれば、「私たちは主にある兄弟・姉妹である」ことを覚えなければなりません。偽りで騙す異端的な教えや期限付き終末論などを主張して教会と社会を混乱させる異端たちは決して受け入れることはできません。しかし、次の三つのことを一緒に信じているクリスチャンであるならば、「主にある兄弟・姉妹としての包容力」を持って心を合わせなければなりません。「⒈聖書が神のみことばであり、永遠なる真理であると信じているか。」「⒉イエス・キリストこそ、まことの救い主であり、全世界を治める方であると信じているか。」「⒊三位一体なる神、つまり、共同体となる神であると信じているか。」この三つのことを聖書通りに信じるのであれば、私たちの間にどのような差があるとして、互いをありのままに受け入れ、大切にする練習が必要でしょう。
 もう一つ、大切なことは非本質的なことには自由になることです。先ほど説明した本質的なことに一致しているならば、他のものに対しては相手を誹謗するより、自分と異なる人を理解して、包容する力を育むことが何より大切でしょう。例えば、「礼拝の際に賛美歌だけを歌うべきか。ワーシップソングを歌うべきか。」「祈る時に声を出すべきか。静かに祈るべきか。」「洗礼は必ず浸礼でなければならないか。」などです。
 これらの非本質的なことに対しては教会に益となることと信徒の必要に応じて合わせたら良いでしょう。たとえ自分と異なっているとしても「主にある兄弟・姉妹」であることを忘れずに、互いを理解して受け入れ、心を合わせて協力していくべきです。17世紀神学者、ルパータス・メルデニウスの「本質的なことには一致を、非本質的なことには自由を、そしてすべてのことには愛を」という言葉を覚えましょう。

趙 南洙師



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