先週、2週間のアメリカへの出張を無事に終えました。その日程のために祈り、励ましてくださった信徒の皆様に心から感謝いたします。今回の出張の第一の目的は、藤島マサオ師とエンジ姉を宣教師として我が教会(GCA Mission)に派遣してくださる、ニュージャージーのグレース・コミュニティ・チャペル(GCC)が主催する「教会開拓者カンファレンス」において、みことばを伝える奉仕のためでした。
 主の教会を開拓する宣教者として、次世代の若者たちをどう立てあげていくのかということを、神のみことばから教えられ、また現場の声を通して互いに交わり、論じ合うという深い学びのカンファレンスでした。過去18年間、若者たちを中心にGCCを開拓し、導いてこられたジェイ・パク先生は、既に30代の若い献身者3人をニューヨークのマンハッタン、オーストラリアのシドニー、カナダのトロントに派遣し、教会の開拓を行なってきました。
 驚くべきことに、教会を開拓するための宣教者だけを派遣してきたのではなく、その宣教者と共に主の教会を建て上げていく若いビジネスパートナーたちを一緒にその国へ派遣して移住させ、その地域においてのビジネスを展開させていたことです。これはとても革新的な献身であり、現代版モラヴィア教会運動と言えるでしょう。
 モラヴィアという名は、現在のチェコ共和国の東部にあった地名です。そこにいたクリスチャンたちは15世紀初めの宗教改革者ヤン・フスの影響を受け、ローマ・カトリック教会の制度を拒絶したことにより迫害を受けました。彼らは信仰の自由を求めて、1722年にドイツの若い敬虔主義者であるツィンツェンドルフ伯爵の領地に移住しますが、これがモラヴィア兄弟団の始まりでした。彼らの生活に大きな影響を受けたツィンツェンドルフは、伯爵の地位を捨て、彼らの指導者となり、「わたしにはただ一つの情熱しかない。それは彼(キリスト)であり、彼だけである。」というスローガンのもと、10人の信徒が1人の宣教師に仕えて派遣する運動を始めたのです。
 実際的にGCCでは、「ビジネスこそ宣教(Business as Mission)」という意識を持つ若者たちが小さなカフェを運営したり、成長しつつあるさまざまなビジネスを通して、神の国のための宣教を実践する歩みをしていました。私は教えに行ったつもりでしたが、むしろ大きなチャレンジを受け、学んで帰ってきました。日本の若者たちもGCCの若者たちのように、実践的な宣教の歩みができるのであれば、日本宣教もそう難しい課題ではないと思います。かつての大ローマ帝国を変革させた人々も、初めは国民の1%も過ぎない群れでした。しかし、実践的な宣教の歩みに生きたクリスチャンたちにより、変革が成し遂げられたのです。

趙 南洙師



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 完璧な人間の姿として来られたイエス・キリストの他に、性格の欠点がない人はこの世に一人もいないと思います。この性格の欠点により、私たちは人生の地雷を踏むような経験をすることがあります。この欠点は普段はあまり目立つことがなく、その罠があることすら気づかないかもしれません。しかし、突然それが爆発して、私たちの人生を失敗に導くからです。
 私たちに性格の欠点が生じる一番目の理由は、私たちの中にある罪の本質にあります。私たちはアダムの罪の本質を受け継いで生まれました。彼の高慢、欲望、利己心、神に対する反抗、責任を転嫁する敵対的なDNAなどが私たちの生活に浸透しており、私たちの内面は自分自身でもよくわからなくなってしまいました(エレミヤ17:9)。この持って生まれた罪の本質は、性格の欠点が生じる基盤となります。
 性格の欠点が生じる第二の理由は、私たちが困難や苦難に遭遇した時、何度も誤った選択を繰り返してしまうからです。危機や苦しみを避けるためにしてしまう、ありとあらゆる間違った選択のことです。例えば、どうにか見かけだけ立派に仕上げて済ませること、非難をなんとしてでも避けること、決して損をしないようにすること、仕事に没頭して悩みを避けること、絶対にリスクを負わないようにすること、状況から逃げること、怒ることなど、数えきれないほど私たちは誤った選択をします。
 第三に、自分の判断が間違ったことや、自分の罪を認めないことです。自分に問題があることを否定し、大げさに騒ぎすぎだと評価を受け入れず、他のことに責任を転嫁し、自分を正当化して、自分の問題を直視することを拒むと、これは致命的な性格の欠点となります。
 日常生活の中で、私たちが自分に問題があることに気づき、立ち止まる時に問題の解決が始まります。もちろん、自分の問題に気づいて認めるその瞬間は苦しみを伴います。これは自分のせいではなく、他のことが原因だと主張したくなる衝動が生まれます。それでもなお、自分と向き合って正直になるとき、癒しは始まります。
 癒しのすべては神様の御手にあります。私たちを造られた神様に自分の問題を告白し、助けを求めなければなりません。その時、神はどんな方法であれ、癒しのプロセスへと私たちを導き始めます。覚えておくべきことは、自分の弱さをさらけ出すその時に、癒しは始まるということです。

趙 南洙師



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