17世紀のドイツの教育学者メルデニウスは「本質的なことには一致を、非本質的なことには自由を、そしてすべてのことには愛を!」という有名な言葉を残しました。私たちは時々、互いの違いを理解し、受け入れようとするよりも、異なる考えを持つ人に対して、敵意や憎しみを煽り、追い詰めようとする極端な人がいます。このような人は、どこに行っても争いと戦いを好む特徴があるように思います。自分と異なる考えを持つ人を批判することはとても簡単でしょう。しかし、決して批判だけで問題を解決することはできません。むしろ溝がさらに深まって、対立や衝突がより激しくなることを知るべきです。
どのようにしたらキリスト者として、自分と異なる考えを持つ人々やその主張に対して正しい判断力を持ち、相手を受け入れて包み込むことができるでしょうか?また、このような両極端の対立の中で、どうすれば互いに結びつき、和解できるでしょうか?
もちろん、嘘を真実として偽り、期限付きの終末論を唱えて教会と時代を混乱させる異端者たちと手を組むことは決してできません。しかし、次の三つを信じるキリスト者であれば、主にあって一つの兄弟姉妹として受け入れ、共に連帯していくべきだと思います。
「聖書が創造主である神のみことばであると信じているか?」、「永遠のいのちなるイエス・キリストが唯一の救い主であり、全世界を治める方であると信じているか?」、そして「三位一体の神を信じているか?、つまり共同体となる神を信じているか?」という三つの問いです。これらの真実を聖書通りに信じているのであれば、私たちキリスト者同士の中に異なる姿や思いがあるとしても、ありのままに受け入れ、互いを大切にする訓練をして、聖霊さまによる一致を守るべきだと思います。
上記の三つの本質的な事柄に一致していれば、それ以外のことについては相手を非難するより、自分とは違う人を理解しようと努め、受け入れる姿勢を育てていくべきだと思います。例えば、「洗礼を受けるべきか?浸礼を受けるべきか?」、「礼拝の際に賛美歌だけを歌うべきか?ワーシップソングを歌うべきか?」、「祈る時には声を出して祈るべきか?それとも静かに祈るべきか?」などのことです。
これらの非本質的な事柄については、教会の益と信徒の必要や状況に合わせて行えば良いでしょう。たとえ自分と異なるとしても、「主において兄弟姉妹」であることを忘れず、互いを理解して受け入れ、連帯して共に協力していくべきだと思います。すべての牧場で、異なる考えを持つ人と共に成熟できることを祈ります。
趙 南洙師
日本語の週報 ダウンロード↓↓
韓国語の週報 ダウンロード↓↓

牧場のリーダーである牧者の働きの中で最も重要な役割は、「なぜ牧場(家の教会)の集いを行うのか」という動機付けを牧場メンバーにすることだと思います。しかしその前にまず、牧者自身が家の教会(牧場)に対してしっかりとした動機付けを持っていなければ、牧場メンバーを動機付けることは難しいでしょう。
動機付けが重要な理由は、自ら意識することで、その働きに対して強い意欲が生じるからです。「動機付けは伝染するもの」という言葉があります。また、アメリカの思想家エマーソンも「自らの情熱なしに偉大なことが成し遂げられたことはない」と言いましたが、まさにその通りだと思います。
中国の春秋戦国時代に、王が孔子を呼んで「すでに腐敗と盗みが蔓延しているこの国を救う方法はないだろうか」と尋ねたそうです。しかし孔子は「まず陛下が他人のものを盗まないことです。そうすれば、陛下が民に金を渡して『盗んで良い』と言っても彼らが盗むことはなくなるでしょう。」と答えたそうです。自ら手本を示す時に周りの人もそのように行うという、動機付けの影響力について語った言葉でしょう。
手本を示す人は、自ら行なっていることに対して確信を持って、そのことに専念する人です。牧者が家の教会のスピリットである、隣人の成功を喜び、魂の救いと弟子を作ることに専念しているなら、共にいる牧場メンバーを強く動機付けることができます。つまり、リーダーがすべてをかけて何かを行なう時、他の人を動機付ける人になるということです。インドのガンジーも「世界が変わるのを見たければ、まず自分自身が変わらなければならない」という有名な言葉を残しました。
では、家の教会の牧者たちはどこから人々を動機付ける力を得られるのでしょうか?答えは明確です。それは「すべての人が救われて、真理を知るようになること(一テモテ2:4)」という神の願いを知ることによってです。このみことばが意味することは、すべての人に神の救いの可能性が開かれているということです。ですから私たちは新約教会の姿に倣って、時が良くても、悪くても関係なく自分たちの家を開いて隣人をお招きし、救いの感謝を分かち合うべきです。
牧者の喜びと誇りは、VIPとして牧場に来られた方がイエス様を自分の救い主として受け入れ、洗礼を受け、神の子とされる瞬間を目撃することです。つまり、霊的な出産を経験することです。さらには、彼らがかつての自分と同じような信仰を持っていない隣人に仕えたいと言う時、一人の人がイエス様の弟子として立てられていく過程を目の当たりにする霊的な体験をします。
趙 南洙師
日本語の週報 ダウンロード↓↓
韓国語の週報 ダウンロード↓↓