神のみことばを伝える牧師は、説教によく耳を傾けてくれる信徒を尊く思います。神のみことばに耳を傾けることは、神さまを愛するという印だからです。また、日常の中でみことばを握り、実践しようと努力して歩む時、正しい信仰者としての成長の実を証することにもなります。
 しかし、いかに素晴らしい説教を聴いても、みことばを心に刻み、決断しない限り成長の果は結ばれません。みことばを聴いて感動を受けるだけではなく、決断と日常での実践に繋がらなければなりません。
 今日ではインターネットを通していつでも良い説教を聴くことができます。ですが、気をつけなければならないのは、良い説教をたくさん聴くことによって自分は霊的に成長したと思うことです。これは勘違いで、むしろ、霊的な成長を妨げるかもしれません。良い説教をたくさん聴いて、聖書の知識が多くなったことが、霊的な成長を意味するわけではありません。みことばを握って従うために、霊的な戦いをする実践がなければ、いかに素晴らしい説教をたくさん聴いても人生の歩みは変わらず、信仰も成長しません。みことばへの決断と従順なしに、ただ知識だけが増えると、霊的な成長どころか、むしろ霊的な肥満を引き起こして、高慢で批判的になってしまいがちです。
 牧場の交わりでは主日の説教を分かち合う時間があります。担当者はまず説教を簡潔に要約し、それから各自が説教と結びつけて一週間の歩みと感謝を分かち合えたら良いです。ただし、注意すべき点が1つあります。説教の内容であれ、日々のみことばを通して黙想したことであれ、牧場の交わりでの分かち合いは、受けた恵みを分かち合うのではなく、みことばを通して示された自分の決断を分かち合うことです。小さなことでも、1週間の歩みの中で実践しようと努力してきた生活を分かち合うのです。ですから、牧場の交わりは「書かれたみことば」を学ぶ時間ではありません。各自の生活の中で「生きてきたみことば」を分かち合う時間です。
 したがって、礼拝の中で説教を聴く時、自分に与えて下さるみことばの一つを握りしめることが大切です。そして、与えられたみことばに従いたいという具体的な決断をするのです。新しく始まる一週間の歩みの中で、与えられたみことばに生きたいと切に願い、そしてその思いで歩んできた一週間の生活を次の主日の礼拝に持ってきて、もう一度その週に与えられるみことばの前で決断するのです。 これが正しい礼拝者の姿勢であり、成長する歩みなのです。礼拝の要点は恵まれることに留まらず、恵みに応えて自分の人生をささげますという献身と決断をし、主イエス・キリストに似た者へと変えられることにあります。

趙 南洙師



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 教会の働きを中心に生きてきた私は、昔からよく聞く言葉があります。それは「教会の働きより、家族が優先だ。」という言葉です。この言葉が生まれた理由の一つは、おそらく家族を放置し、子どもたちの面倒を見るのを後回しにして、ただ教会の働きに没頭した昔の先輩牧師の子どもたちが、道を踏み外してしまうことが多かったからではないかと思います。
 そしてもう一つの理由は、最近の西洋の牧師の中に、定時に出退勤をして、他の時間には家族と過ごしたり趣味を楽しんだりする、いわば一般的な社会生活を送る牧師が多くいるからでしょう。彼らはいつも「何より家族が大切だ」と強調します。その影響も少なくないと考えられます。
 私も、教会の働きより家族を優先する考えが理解できないわけではありません。ただ、牧師である以上「教会の働きより家族が優先だ」という言葉を発するのは違うと思うのが私の立場です。なぜなら、イエス様も「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37)と明確に語られたからです。
 もしも主のからだである教会が危機に直面した時、最終的に教会を守るために命をかけなければならないのは牧師ですから、どうして家族が優先と言えるでしょうか?もしも昔の先輩牧師たちがこう言いながら教会に仕えたとしたら、偶像崇拝である神社参拝を拒絶して殉教した、韓国の朱起瑞(チュ・ギチョル)牧師や、ナチスの圧政に抵抗したディートリヒ・ボンヘッファーのような牧師は生まれませんでした。キリスト教の力は、イエス・キリストの十字架の犠牲により生まれるのではないでしょうか。そのキリストに学び、従う牧会者が犠牲すべき大切な一つがあるとすれば「家族と子どもの犠牲」かもしれません。
 とはいえ、家族や子どもたちをただ単に後回しにしてもいいと言う話ではありません。危機的な状況、または教会のために100%の時間を費やさなければならない状況ではないのに、単に自分の趣味のために子どもたちの世話を後回しにするのは、むしろ怠惰だと言えます。したがって「教会の働きと家族のうち、どちらを優先すべきか?」と問うのは、愚かな質問だと言えるでしょう。ですから私たちは、賢く時間を使いながら、家族と子どもたちとの時間を充実させるべきです。
 私は子育てにおいて、多くの足りなさがあった者でした。それにも関わらず、子どもたちが健やかに成長してくれたことを感謝しています。すべては神の恵みであり、祝福です。

趙 南洙師



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