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 家の教会を形成する先生たちが口を揃えて話すことがあります。それは「増殖は家の教会の花だ」という言葉です。牧場が増殖することは、イエス様のように仕える生き方をしたいと決心するもう一人の牧者(弟子)が立てられることでしょう。したがって、牧場の増殖は確かに家の教会の働きの「花」とも言えるのです。
 しかし問題は、牧場が増殖する時に、牧者が心に抱いて祈ってきた方に牧者となることを提案したけれど断られる時です。これにより、増殖のタイミングを逃すだけでなく、牧者は牧場の働きに対して自分を低く評価し、失敗感を覚えるようになります。ですので、今日は増殖を多く経験されたある方の知恵を分かち合いたいと思います。
 増殖を備えておられる牧者の方は、このようにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。ある日の牧場の交わりで「私たちの牧場は、今度増殖せざるを得なくなりました。なので、神様は私たちの中で誰が新たな牧者として立てられることを望んでおられるか、私たちが投票して主に尋ねてみたいと思います。来週の交わりの時に投票しますので、一週間祈ってから来てください。」と事前に告知します。
 翌週、牧場の交わりが終わる頃に投票用紙を配ります。そして、私たちの中でどなたが増殖した牧場の牧者として立てられるべきか、その人の名前を書いて事前に準備しておいた箱の中に入れるようにします。皆が投票して帰った後、牧者は一人で開票して確認し、翌日に最も票を集めた人に電話をかけて「牧場のメンバーたちは、あなたが増殖する牧場の牧者として仕えて下さることを望んでいます。これこそ神の召しであると思います。ぜひこの一週間祈ってから返事してください。」と伝えます。
 こうすることにより、牧者個人で勧める時と比べて大きく二つの面で変わることがあります。第一に、牧者個人が勧めることに比べて、すべての牧場のメンバーが自分を望んでいるということに異なる責任感を感じるようになります。また、その状況で拒否することは、牧者一人に対する拒否ではなく、すべてのメンバーに対する拒否になるため、拒否することに対する負担も大きくなります。第二に、祈ってみるようにと伝えたため、神様に祈らざるを得なくなります。そして、祈りの中でどんなふうにでも神様からの答えをいただくようになるでしょう。
 我が教会の牧場が増殖することは、主に喜ばれるもう一人の弟子が立てられることです。私たちが聖書の原則に知恵深く従いながら、魂の救いと弟子作りのためにさらに忠実になることを願います。

趙 南洙師



 時々、「私は心の中で神を信じていますが、必ず教会に集わなければいけませんか?」と質問する求道者に出会うことがあります。教会という組織に縛られたくないという意味だと思います。今日は教会に集うべき理由をいくつかお話ししたいと思います。
 第一に、旧約聖書を見ると、神様は私たちを「個人の信仰」ではなく、「共同体の信仰」として召されているからです。旧約聖書を少しでも注意深く読めば、神様は個人ではなく、イスラエルの共同体を神の民として、この世の中に神様を表す聖なる祭司の国として召されたことがわかります。イスラエルは最初から個々ではなく、神の国の民として、この世に神様を表す使命と責任を与えられました。ですから旧約時代において、神様はイスラエルを個人で信仰を持つ者としてではなく、最初から共に生きる共同体性を持つようにと召されたのです。しかし、旧約のイスラエルはこの共同体としての信仰の使命と召しに答えることができず、残念ながら失敗してしまいます。
 第二に、神様は新約時代においても、教会を個人としてではなくキリストの体として建てて下さったからです。新約では旧約のイスラエルの失敗によって、Ⅰペテロ2:9のみことばのように、「神の民」「祭司の国」「イスラエル」という名が「教会」という名に移ります。神様の私たちへ召しは、個人の救いを超えて、この世に向けた神の国の一員としての召しです。新約聖書において語られるすべての言葉は、個人ではなく教会の共同体に向けられたものであることがわかります。呼びかけも「あなた」ではなく「あなたがた」、あるいは「あなたがたが共に」と言われています。「あなたがたが共に」という呼びかけは特定の個人を指しているのではなく、当時、共に集まっていた小さな家の教会、あるいは小さな家の教会の群れが集まって形成した地域教会の共同体への召しであることがわかります。
 新約聖書の書簡もまた、教会の共同体に向けて送られた実際的な信仰生活の指針でした。したがって、教会の共同体を無視して集わず、「心の中で信じればいい」と思うのは、まるで事故によって指が切断されて落ちたのに縫合手術を拒否して、切り離された傷が腐っていくのをそのままにしておくようなものです。ですから教会の共同体を離れて無視することは、教会の頭なるイエス様を無視して拒否することと言えるでしょう。
 もし模範になれなかった私たちのせいで傷つき、そのために教会を離れてこのようなことを言う方がいらっしゃるなら、まず私たちが悔い改めましょう。そして彼らが教会の共同体に再び戻れるように仕え、祈る機会になることを願います。

趙 南洙師



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