日本語の週報 ダウンロード↓↓
韓国語の週報 ダウンロード↓↓

主イエスを信じるクリスチャンたちが、日常生活の中で経験する困難で厳しい戦いがあります。それは「自分自身との戦い」です。どんなに熱心に、誠実に、よく仕えてきた人であっても、思いがけないところで無力に崩れてしまうのを見ると、私たちの本当の敵は外にいるのではなく、自分の内側にいるのだと気づかされます。自分の内面を守れなければ、私たちは崩れ、倒れてしまうのです。聖書にも、最初は謙遜だったサウル王が、やがて高慢になって失敗し、ダビデ王でさえも不品行の誘惑に屈してしまったことが記されています。あれほど確信を持っていたペテロでさえ、主イエスを三度も否認してしまいました。
信仰生活を歩み続けるためには、常に自分との戦いが必要不可欠です。もし何か間違いがあれば、それを認めて正し、足りなければ補い、良いものはさらに伸ばす、そうした自己省察が欠かせません。しかし、日々の働きや奉仕に慣れてくると、この内面との戦いは疎かになりやすくなります。それは目に見えにくく、他人にも気づかれにくいからです。忙しさの中で、神の御前に立ち、「今の自分がどのような状態にあるのか」を振り返ることなく、ただ熱心に取り組んでいれば大丈夫だと思い込んでしまう、これは私たちが最も陥りやすい、危険な錯覚です。
こうした時こそ、自分自身を客観的に見つめる時間が必要です。神の前で、毎朝、自分の内面と動機を省み、もし間違いがあるならすぐに悔い改めて立ち返るべきなのです。もし言い訳や自己弁明ばかりしてしまうなら、心の状態を正しく見つめることができず、自分との霊的戦いを諦めてしまうことになります。その結果、心がだんだんと高慢になったり、逆に無気力になって落ち込んでしまう危険に陥ります。
そのような時、私たちは、自分の感情ばかりあおるサタンの誘惑に気づかずにいるかもしれません。サタンは、自分の内側を見ないようにさせ、失敗へと導こうとします。たとえ他の人よりも熱心に働き、表面的には実を結んでいるように見えても自分との戦いに敗れてしまえば、すべてを失ってしまうのです。
まず神の前で、自分の心を絶えず点検し、高慢や怠惰にならないように、日々自分自身との戦いを続けていくことが、自分自身を守る道であり、信仰と奉仕において勝利する道なのです。
趙 南洙師
日本語の週報 ダウンロード↓↓
韓国語の週報 ダウンロード↓↓

1週間は168時間です。この中で、比較的誠実なクリスチャンの青少年は、毎週2時間程度、教会で過ごしていると言えるでしょう。家庭における全人的な信仰教育を語る前に、この2時間だけで教会の外で過ごす166時間に打ち勝つ数学的な方法はないと思います。
2時間が166時間に勝つためには、ただ2時間の教育の質を高めるだけでなく、その2時間の教育が生活の領域へと拡張・延長される必要があります。一言で言えば、教会で出会う子どもたちと真の信仰の家族になることです。1週間の間に一度も思い出すことのない子どもたち、ただ日曜日に一度だけ会って2時間一緒に遊んであげることで、その子どもがキリストの弟子として生きていくようになると期待するのは、行き過ぎた宗教的な欲であると言えるでしょう。このような教会教育の現実が続くならば、それは各種クラブ活動にも及ばず、もはや信仰の家族と呼べるものではありません。
以前、教会学校の先生たちに関する悩みを聞きました。若い大学生の教師たちは個人的な事情により、月に1、2回しか出席できないため、休みが重なると指導する教師がいなくなるというのです。このようなわが教会の現実を知らなかった自分自身が非常に恥ずかしく、このような教会の状態でどうして次の世代を担えるのかと、主の前で悔い改めの時間を持ちました。
生徒確保のために全力を注ぐ学習塾の先生たちよりも、教会学校の教師たちにそのような情熱が見えず、平日の学校よりも関わる時間が少ない教会学校だからこそ、すでにその影響力を失っているのも当然なのかもしれません。こうした子どもたちが、わが教会の未来を担うことができるでしょうか?
しかし、神のみことばの上に築かれていく教会教育は必ず回復されなければなりません。主にあって家族として召された私たちは、与えられた子どもたちを自分の娘、息子、弟・妹と受け止めるべきです。そうして初めて、わずかの2時間でも166時間に打ち勝つ力を持つようになるのです。
日曜日の教会学校で出会うその子どもを、自分の子であり弟・妹だと思うなら、166時間を忘れて過ごしてから再び会うのではなく、一週間の生活を覚え、再確認する2時間にならなければなりません。どうかこの思いに共感する信徒の皆さんが、教会学校の先生となって共に献身してくださるようお願い申し上げます。
趙 南洙師