2010年5月、幼児洗礼を行った週に牧師コラムでお伝えした内容ですが、来週の幼児洗礼に向けて皆さまにもう一度お伝えさせていただきたいと存じ、再度掲載させていただきます。
 聖書が示している信仰は、神様による契約の関係です。神様は私たちの父であり、私たちはその子どもであるという関係です。神様を知らなかったアブラハムでしたが、この契約関係に従って自分の体に契約のしるしとして割礼を受けました。そしてこの割礼の恵みは、幼い子どもイサクに、そして孫ヤコブへと受け継がれました。長い間、この割礼の伝統は旧約聖書による教えでしたが、その契約の意味を破ってしまった人間への新たな契約として、主イエス・キリストの十字架のあがないによる洗礼が施されました。つまり新たな契約関係のしるしが、割礼から洗礼に変わったということです。
 ところが主イエスの弟子たちのように、ほとんどの人々は信仰のことは大人だけのことと思っていたのでしょう。少なくとも子どもの出る幕ではなかったのです。しかし、主イエスは子どもを迎えて祝福されました。人々が子供たちを連れてイエス様のもとに来た時、弟子たちはこの人々を叱りましたが、イエス様のお考えは弟子たちとは違いました。イエス様は子どもを抱き上げて、手を置いて祝福してくださったのです。幼児洗礼は、そのように主の手を子どもに置いて、祝福していただく行為なのです(マルコの福音書10:14-16)。
 しかし厳密に言えば、この祝福が必ずしも洗礼を意味するとは言えないかもしれません。そこで、幼児洗礼の聖書的根拠として、使徒の働き16章15節の、「彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けた」という記事を挙げるのです。この「家族」のなかに幼児もいたであろうと考えるからです。家長、あるいはそれに準ずる者が信仰を与えられると、その信仰の告白に基づいて、家族全体が洗礼を受けたと考えられるからです。ひとつの家がひとつの信仰に生きるのは当然である…という考えが、これと結びついたともいえます。家族の絆を神の祝福抜きには考えることができなかったのです。そこで教会の歴史の中で、だんだんと幼児洗礼が定着しました。
 いわゆるキリスト教公認以後、特にキリスト教社会が形成されるとき、幼児洗礼が重要な働きをしているとさえ見ることができるのです。また、信仰継承のためにも幼児洗礼は大切です。

趙 南洙師



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 2018年9月の牧師コラムでお伝えした内容ですが、新約教会の回復を求める私たちの信仰においてとても大切なポイントなので、再度掲載させていただきます。
 キリスト教の草創期に多くの教会を建て上げるため大きな役割を果たした使徒パウロは、自分の権威と既得権を認めてもらおうとせず、むしろ信仰に歩もうとする聖徒たちの喜びのために協力者となりたいと表現していました(第2コリント1:24)。即ち、聖徒たちが祝福されることなら、なんでも助けるしもべとして歩みたいという表現です。
 パウロがこのように謙遜な表現をしているのは、彼が人格的な献身者であった側面もありますが、それよりパウロは主イエスの全ての行跡を見て学び、その通りに従ってきたと理解するのが正しいと思います。
 教会の最高の立場、つまり教会のかしらは主イエスなのに、イエス様は教会に対して権利を主張するのではなく、教会が祝されることなら、すべてのことを犠牲してくださいました。それでパウロもそのようにしたと思います。
 わが教会の32牧場の牧者たちは、毎週、牧員たちを自分の家に招き、食事を共にし、彼らの痛みと感謝を分かち合い、彼らに必要が生じた場合はいつでも駆けつけ、助け、具体的に支えています。
 このようにするのは、牧者たちの家庭が経済的に余裕があるからでも、彼らが人格的に優れているからでもなく、特別な賜物が与えられているからでもありません。ただイエス様がそのようになさったからであり、パウロのような新約教会のすべてのリーダーたちがそのようにしたので、私たちもそのようにしたいという純粋な信仰の従順によるものであります。
 皆さんもご存知かと思いますが、牧者になるというのは牧員たちの魂を支え、犠牲を惜しまない奉仕を志願することです。ここに家の教会(牧場)が上手くいく秘訣が隠されています。犠牲は机の上の理論ではありません。具体的に、他人のために金銭と時間を用いることです。隣人が成長、成功するために助けることです。これこそ私たちが信じ、誇りにして、人を生かす復活に繋げる十字架のスピリットです。ですから牧者は、教会内で自分の権威を主張しません。牧者は魂の苦しみをいだき、神の前に涙で訴え続ける主のしもべたちです。
 この牧師は、わが教会の美しい32牧場の牧者の方々と共に仕えていることを心より感謝しています。彼らはこの牧師とわが教会の誇りです。

趙 南洙師