日本語の週報 ダウンロード↓↓

4er450db

韓国語の週報 ダウンロード↓↓

4433430db
 我が教会の主日礼拝では、礼拝の終わりに派遣の賛美をささげながら、「決心と献身」を表明する時間を設けています。なぜこのような時間があるのか、またどのようにすればよいか方法がわからない方もおられるようなのでもう一度説明いたします。
 礼拝に参加された方々の中で、イエス様を信じたいと決心される方や、すでに信仰を持ち、神の前で再び決心や再献身をしたいと思う方、祈祷課題があって牧会者から祈ってもらいたいと願う方が講壇の前に出ます。前の席に用意されている紙に、祈ってもらいたい内容を簡潔に書いてください。教職者が祝祷の後にお祈りいたします。
 ご存じのように、新約聖書の教会の姿を求める我が教会の牧場が健全に建てられるために、「道コース- 牧場の交わり – 主日共同礼拝」という3つの軸がバランスよく立てられる必要があります。特に神の臨在を望む「主日共同礼拝」となるために、霊とまことを持ってささげる礼拝を、心を込めてよく備えるべきです。そのために、まず次の2つを心に留めましょう。
 第一は、礼拝を通して聖霊の導きを感じたならば、講壇の前に出て「再献身」することです。私たちは神の臨在を切に願いながら心を尽くして礼拝をささげる時、聖霊が力強く臨まれることを体験し、説教のみことばを通して神の御声を聞くようになります。その時にはためらわず、前に出て「再献身」を表明するのです。そうすれば、神の臨在と導きをより鮮明に体験するようになります。また牧会者が手をのせて共に祈った後、その後の1週間はとりなし祈ります。そのようにしていくと次の主日礼拝が待ち遠しくなり、さらに神の臨在を待ち望むようになって、生き生きとした礼拝者に変えられ、日々神の国の喜びを楽しみ続けるようになります。
 第二は、礼拝堂の「前の席」に座って礼拝をささげることです。礼拝が始まる10分前までに来て案内係の案内を受けて、礼拝堂の「前の中央の席」に座り、礼拝の順序を一つずつ覚えながら神の臨在が体験できるよう、まず祈りを持って備えてから礼拝に参加するのです。後ろの席や入り口の方は礼拝のためにすでによく備えられた奉仕者たちが座る席ですので、落ち着いた心で礼拝に集中できるよう、積極的に前の方に来て座っていただければと思います。前の席を空けて後ろに座ると、神の臨在と恵みを受けにくくなります。自分の心の中に神様との距離感が生じるようになるからです。
 礼拝時間に遅れないように前もって準備していただき、幼い子がいる方々は母子室、または6階の礼拝堂を利用していただくと幸いです。ただし、子どもたちも礼拝者ですので、おもちゃやお菓子などの提供は控えていただければと思います。私たち皆が、神のご臨在の中で礼拝をささげられることを願います。

趙 南洙師



日本語の週報 ダウンロード↓↓

4er450db

韓国語の週報 ダウンロード↓↓

4433430db
 「信仰を持ちたいと願い、信仰を求める祈りもささげてみましたが無駄でした。」と言う人がいます。長い間教会に通っているにも関わらず、神の存在や自分がキリストによって救われたという確信が得られないまま悩んでいる人がいます。
 このような時に覚えておきたいのは、懐疑的になることや、疑う心が生まれること自体は間違っていないということです。性格によっては、すぐに信じられる人もいれば、何事も疑ってみる人もいます。疑い深い方は、時にその疑り深い性格によって悩むこともあります。ひどい時には「どうやら私はキリスト教の信仰とは合わないようだ」と思ったり、「私はこの教会とは合わないかもしれない」と簡単に結論づけて、教会や牧師から離れたりします。
 しかしこうなる理由は、たいてい信仰が感情的なものだと勘違いするからです。もちろん信仰を持つ人々が感情的に喜びを感じ、満たされる思いを味わいながら生きることは事実ですし、感情は人の気質と深く関わっているのも事実です。また、感情は変わりやすいため、感情を中心に判断すると失望するようになります。
 まず、信仰と懐疑的な思いは共存することがあると認める必要があります。むしろ、全く疑う心なく受け入れた信仰の方が健康的でない時もあり、苦難が訪れた時には崩れやすいこともあるからです。たえずしのび込む疑いを乗り越え、信仰に至る心こそ、本当の信仰だと言えるでしょう。
 信仰は、いつも信じようとする意志と決断から始まります。信じてみるという思いは、自分の足りなさを認めることです。自分の意志によっては自己を正すことができないということと、世の中には自分の力で成し遂げられないことが多いということを認める。つまり、弱い自分を認めつつ、自分よりはるかに偉大な方に人生を委ねてみようとする決断なのです。
 とはいえ、信じるに値するすべての証拠があるから、このような決断をするのではありません。むしろ信じるに値するたくさんの証拠があり証明されたとしても、それは事実や情報であって信仰の対象にはなりません。神様はすべてのものを用いてご自身を証明しようとはなさいません。なぜなら、愛の関係は常に証明される事実や情報により生まれるものではなく、信じると決心する時に生まれるからです。
 神様は「信じてみます」と決心するあなたを通して働かれます。そういうあなたに神を体験させ、主を味わい知らせます(詩篇34:8)。このような神の善を味わって受け入れた人こそ、人生のまことなる幸せを告白できるようになるのです。

趙 南洙師