先週、金田優輝伝道師と塚田愛姉の結婚式がありました。参加された方々が共に喜びを分かち合う祝福された結婚式でした。司式者であった私にもとても感謝な時でした。
 ある牧師が、信徒から「先生、人柄は良くないけれど良い信仰を持つ人と、人柄は良いけれど信仰のない人、どちらが結婚相手としてふさわしい人ですか?」と質問を受けたそうです。その先生は、「結婚相手の大切な要素である『人柄』を強調するために、このような質問が人々の間でよくされていますが、しかし誤った理解が前提となっているため、それは良い質問とは言えません」と言いました。そして「良い信仰の基準はなんですか?」と逆に質問をしたそうです。
 私もまた、結婚の相談にのる時、「お相手の方は全てがそろっていますが、信仰がありません。」という、似たような質問を受けたことが何度かあります。私たちは「良い信仰」の基準について、神の実在を確信し、御霊による体験があり、救いの教理の明確な理解と豊かな聖書知識があり、そして教会生活が充実していれば、良い信仰を持つ人だと思いがちです。
 しかし、本当の良い信仰の基準は、「イエス様はぶどうの木で自分が枝となる人」なのです。「信仰がある人」とは、イエス様のうちにとどまり、その人のうちにイエス様がとどまってくださることです。言い換えるなら、「信仰がある人」とは「自分は死に、キリストによって生きる人」だと言えるのです。このような時、どれほど悪い人柄であったとしても、キリストを信じる信仰によって良い人柄の人へと変えられると私は信じています。ですから「人柄は良くないけれど、良い信仰を持つ人」という表現は成立しない言葉だと言えるのです。
 人柄とはある意味、その人の性格と品性を表す表現です。しかし「良い人柄」を持つ人の中には、意外と霊的にとても頑なな人が多いことを否定できないのが、私たちが経験する人間関係の現実です。どんなに良い人柄の人であっても、私たち人間は根源的には地獄に行くしかない罪人です。
 さらに深刻な問題として感じるのは、人柄の良い人だと言われている人々の中に、ある程度の聖書知識を持っているにも関わらず、「自分が罪人であることを認める」ことに納得できない人々がいるという残念な現実です。そのため、イエス様が十字架にかかり死なれた時、自分も十字架の上でイエス様と共に死んだという、聖書が語る福音を素直に受け入れられない哀しさがあるのです。ですから、いわば「人柄の良い人」でさえ、素直にイエス・キリストの福音を受け入れることができないのです。人柄は良いのに、神様を信じることができず神の国に行けないなんて、こんなにも残念な人がいるでしょうか。
 聖書は「全ての人が罪人であり、義人は一人もいない」と、明確に語ります。ですから、良い信仰の人は人柄も良い人であると言えるのではないでしょうか。

趙 南洙師



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 聖書は私たちの人生を旅(巡礼)として例えています。旅のような私たちの人生が幸せになるにはどのような方法があるでしょうか。楽しい旅となるために、必要な条件のいくつかを覚えておくと幸せな人生になると思いますのでシェアいたします。
 第一に、楽しい旅となるためには良い人と共にする必要があります。旅を共にするというのは、時間と空間を共にするということですが、一緒にいる人が不便を感じているとその旅はとても辛くなるでしょう。人生も同じだと思います。私の状況をよくご存じで、趣向を理解してくださるイエスさまが、愛によって人生の旅を共に担い、一緒にいてくださるならば、その旅は楽しくて益となるに間違いないでしょう。さらに、愛する家族と教会の共同体が自分の同伴者となって旅をしているため、その人生の歩みが幸せになるのはいうまでもないことです。
 第二に、楽しい旅となるために荷は軽くするべきです。大きな重荷をいくつも持って旅をすることはとても辛いことです。必要なものは持っていくべきですが、ただ立ち寄るだけの場所なのに、まるで永遠にとどまる場所のようにあらゆるものを持っていくのは、とても愚かなことです。旅である私たちの人生に、主が与えてくださった必要な荷は使命です。「私はこのために生きる」というのが使命という荷ですが、これは重荷ではなく、とても楽しい荷です。使命に従って歩む時、生きる喜びがある人生になります。しかし使命がわからない人は、あらゆるものを持っていかなければいけないため、辛い人生になるでしょう。
 第三に、帰る家があるからこそ楽しい旅となります。どんなに素晴らしい世界的名所に行き、万全の旅行パッケージで旅立つとしても、帰ることができる家がなければ決して楽しい旅にはなりません。むしろ、いつも心配と不安で心が占められ、気が重くなるでしょう。しかし、帰ることができる家があるからこそ旅は楽しくなり、小さな困難にぶつかったとしても耐えられます。私たちにはいつか帰る家があります。私たちが人生という旅を終えて神の家に帰る時、そこで主は喜んで私たちを迎えてくださいます。そして、先に召されて離れていた信仰の家族とも喜びの中で再会できるのです。その時には病も、苦しみも、涙も、悲しみも、死もありません。ただ、喜びと楽しみだけが私たちを待っているのです。
 あなたは主イエスを信じる者として、この三つの条件を生きているでしょうか。

趙 南洙師



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