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皆が感じている問題を分かち合いたいと思います。それは、クリスチャンが日常生活の中で仕事や奉仕をする際に直面する、困難で辛い戦いがあるということです。それは「自分自身との戦い」です。熱心に、誠実に、よく仕えて生きてきた人たちが、あっけなく崩れていくのを見ると、その原因が外側ではなく、むしろ内面にあることが分かります。自分の内面を守れなかったときに、人は倒れたり、つまずいたりしてしまうのです。
聖書を見ても、初めは謙遜だったサウル王も高慢になって失敗し、誇らしかったダビデでさえ性的誘惑に敗れました。あれほど断言していたペテロでさえ、3度もイエス様を否認し、つまずきました。誰もが正しい考えをもって、正しい道を歩もうとするなら、自分自身との戦いを続けなければなりません。自分の誤りを認めて正し、不足していることを補い、得意なことをさらに活かしていく「自己省察」が欠かせません。
しかし、仕事や奉仕に慣れてくると、この内面的な戦いが疎かになりがちです。なぜなら、それは表に出にくく、他人には気づかれにくいからです。奉仕に忙しくしていると、神のみことばの前で「自分が今どのような姿であるのか」を省みることができず、「一生懸命働き、奉仕しているのだから、正しく生きているはずだ」と錯覚してしまう危険があります。これこそが、私たちが陥りやすい最も大きな落とし穴です。
こういうときには、自分自身を客観的に見つめる時間が必要です。神の御前で、毎日静まる黙想の時間に、自分の内面と動機を見つめ、誤ったところがあればすぐに悔い改めて立ち返る必要があります。言い訳をしたり、自分を正当化し続けると、自分の内面の状態を見ることができなくなり、自分自身との霊的な戦いをあきらめてしまうことになります。その結果、自分の心が次第に高慢になって倒れてしまったり、逆に無気力になって落ち込んでしまうという危険に陥ります。そして、自分の内面にある感情だけを刺激するサタンの攻撃に気づけなくなります。サタンは、私たちが自分自身の内面の状態を見ないようにさせて、失敗へと導きます。
たとえ人一倍熱心に働き、奉仕し、多くの実を結んだとしても、自分自身との戦いに敗れたなら、すべてを失うことになります。だからこそ、まず神の御前で自分の内面を常に見つめ、高慢や怠惰に陥らないように自分自身と戦い続けるとき、それこそが自分自身を守る道であり、自らの人生と与えられた奉仕の働きにおいて勝利する道なのです。
趙 南洙師
新約聖書のコリント教会にも見られるように、教会の中には争いや対立が多いです。なぜでしょうか? それは、信徒たちが霊的に「幼い」からです。では、なぜ信徒たちは幼いのでしょうか?それは、牧師が彼らを幼いままにしてしまっているからです。多くの牧師は、信徒が少しでも不満を感じたら、すぐに駆け寄って説明し、慰めます。教会に来なくなれば、お願いしてまた連れてきます。「負担を感じて教会を離れてしまったらどうしよう」と心配し、献身や奉仕について話すことすら控えてしまうこともあります。そのため、信徒はいつまでも子どものままでいるしかなくなるのです。
子どもの特徴は、自分の欲求しか分からないということです。お腹が空けば、親の都合に関係なく泣きわめきます。我慢できず、哺乳瓶をくわえるまで泣き続けます。霊的に幼い人々も同じです。自分の願いしか見えず、忍耐力もありません。だからこそ争いが起こり、喧嘩し、傷つくのです。
信徒を成熟させるには、子どもを育てるときのように「自立の練習」をさせなければなりません。子どもが幼いときは親がすべて世話をしますが、年齢が上がるにつれ、徐々に自立を促します。10代になれば、もっと多くの自由と責任を与えます。大学生になれば、自分の人生を自分で選び取るようになります。最終的には、自分の生活を管理するだけでなく、親を支えられる存在へと成長します。
したがって、牧場でも信徒たちが成熟することを望むなら、牧者が一方的に世話をする関係から、少しずつ対等な協力関係へと進めていく必要があります。もちろん、信仰を持ち始めたばかりのときは赤ちゃんのように世話をしてあげるべきです。しかし、ある程度信仰が成長したなら、責任感を育てる必要があります。小さな奉仕でも任せて、仕える側に立たせましょう。忍耐力も育てなければなりません。例えば、牧者に、すぐに会いに来てほしいと言われても、少し時間をおいてから訪問し、今すぐ会おうと言われても、時間を決めて会うなどして、忍耐や柔軟性を教える必要があります。試練を受けているときにも、すぐに答えを出すのではなく、自分で戦い、勝利できるように支え、待つ余裕が必要です。
このようにして牧者への依存度を徐々に減らし、最終的には「同労者」となるように導くことが大切です。そうでなければ、牧場や教会が霊的な幼さに留まってしまうでしょう。牧者の使命は、信徒を奉仕者として育てることです。成熟した同労者を育てることが、奉仕の目標であることを忘れないでください。
趙 南洙師
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