ご存知のように、2008年から我が教会は新約聖書が教える教会の姿を回復する家の教会のムーブメントを日本において始めました。しばらくの間、牧会者セミナーと信徒対象のセミナーを同時に開催することによって、日本中の牧会者と他教会の信徒のたちが、我が教会の牧場のミニストリーと道コース、主日牧場共同礼拝を見て学ぶために仕えてきました。
 しかし4年前、主任牧師であった私の引退と同時に、セミナーの開催を他教会に委託することになりました。しかし、委託された教会もコロナ感染予防のため、セミナーの開催に困難を抱えてきました。
 今年の年間聖句のようにリバイバル・アゲインを望みつつ、来る4月21日(金)〜23日(日)、我が教会で新たに信徒対象セミナーを開催することとなりました。家の教会のセミナーは他のセミナーとは違って、参加してくださる方々を神さまからの御使いとして受け入れ、仕えます。ですから徹底的に準備をし、また牧者の家をありのまま見せるセミナーです。家の教会のスピリットは教わって学ぶのではなく、見て学びます。ですから私たちの見たまま、知っているままの姿を、隠すことなく見せるセミナーなのです。牧者の家を見せることも、休みなく講義を続ける牧師も、食事の準備をはじめ、見えないところで仕える多くの奉仕者たちの献身も、それらを考えるとセミナーの開催は決して簡単なことではないと思います。
 それにも関わらず、30名の御使いたちを受け入れ、セミナーを開催しようとする理由があります。一つ目は、家の教会のセミナーはどの教会でもできる奉仕ではありません。ですから開催できることは大いなる祝福であり、栄光なのです。二つ目は、天における報いが与えられるからです。キリストの名によって、御使いたちに飲ませる一杯の水さえも主は決して忘れないと教えてくださいました。ですから私たちが、心と体を尽くして仕えることにより、我が教会の上に神の豊かな祝福が与えられると信じます。三つ目は、私たち自身を振り返り、見直すことのできるとても良い時であるからです。家の教会のミニストリーをする中で、時間の経過と共に私たちはマンネリ化し、苦労や労力を言い訳にして心が変化していたかもしれません。しかし、家の教会に関心をもって学ぼうとする人々の姿を見る時、私たちは再び原則に戻り、家の教会のスピリットと理念を確認することにより、変質していた私たち自身の姿に気づくことができるかもしれません。
 労することの多いセミナーの開催ですが、新たに発見される主の真理が与えられ、また奉仕を通した祝福の証しと感謝があふれる時になると信じます。

趙 南洙師



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 聖書全体を貫く大切な単語がいくつかありますが、その中のひとつが「従順」という言葉です。神さまは、アブラハムを招いて契約を結び、従順の大切さについて何度も教えられました。その他にも士師記の中でイスラエルの民が苦しんでいる理由、列王記に登場する王たちの治世が平安の時と不安定な時がある理由、そしてイスラエルの民が囚人として捕囚された理由、これら全ては従順に関わる問題であると主は語られます。
 何より、私たちに救いが与えられたのは主イエスの十字架の従順の故でした。新約聖書はもっと積極的な従順を求めています。子どもは親に、妻は夫に、若者は大人に、しもべは主人に、民は統治者と全ての制度に、信徒は指導者たちに従うことを教えています。そのため従順は主を信じる全ての人が求めるべき、信仰の実践的な姿であり、信仰の尺度だと言えます。いくつかの従順の姿を分かち合いたいと思います。
 第一は、思考の従順です。私たちの強い自我は、従うことを妨げます。聖書の学びでは全てを理解していたのにも関わらず、自我は最後の瞬間「いや、私の考えは違う」という不信仰を与えます。VIPだけではありません。全ての人が同じです。恵まれて決心しようとする時「いや、ちょっと待って!自分が何者だというのか」という強い自我から生まれる思考の不従順が、神の導きに私たちの人生を委ねようとするのを妨げます。
 第二は、知識(哲学)の従順です。私たちはどれほどたくさんのことを思考しているでしょう。そのため、聖書を読んでいるうちに、証しを聞いているうちに、時には説教を聴くときさえも「私はそう思っていない」という哲学と思想の不従順が私たちの純粋さと霊的成長を妨げます。しかし覚えておきたいのは、私たちがもっているほとんどの哲学と思想は、他ではなく罪あるこの世から受けたものだということです。反面、聖書は神のみことばです。使徒パウロは、聖書がこのような高ぶり(知識)を打ち倒すと語りますが(Ⅰコリント10:4〜5)、信じる私たちがこのような知識により不従順することがあってはなりません。
 第三は、行動の従順です。私たちは、神を愛していると告白し、正しいクリスチャンの姿を求めていながら、実際には行動できないことが多いです。「祈らなければ、聖書を読まなければ」と思いながらも行えず、言葉では「従順します」と言いつつ、従順できないことがあります。行動の従順は、私たちの力では実践するのは難しいと思います。静まる時に、語りかけてくださる神の御声を直接聞くことができますようにと願います。そうする時、私たちは従順できると信じます。

趙 南洙師



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