家の教会は、新約聖書でいう「小さな教会」です。聖書では主イエスを信じる私たちを「羊」とたとえるため、家の教会を「牧場」と呼び、群れのために責任を果たし、導くリーダーのことを「牧者」、つまり「信徒牧会者」と称します。そのため、牧者は小グループのリーダーというより、牧場のメンバーをケアし、導く牧会者と理解しています。
 牧者は、牧場の集まりを通して魂の救いのための伝道活動と、共に祈り、礼拝もささげ、聖書を通した教育を行います。そして、信徒との交わりと共に、宣教師や弱い教会を支援することで宣教の役割をも担っております。もちろんこれは牧者ひとりが担うのではなく、牧場のメンバーを励まして、共に奉仕する喜びを味わいながら、小さな教会としてその機能を全うするのです。
 牧者の喜びとは、一番目に、牧場の交わりを通して人々が主イエスに似ていく姿を見ることです。つまり人々が変えられていく姿を見る中で、聖霊様がリアルタイムで働かれるのを体験できるのは、牧者として仕えてみなければ体験できない祝福です。信仰や教会生活に対して懐疑的で、反対していた人が変えられ、主イエスを信じると告白し、洗礼を受けます。そのように変えられていく姿を見ることこそが、牧者に与えられるかけがえのない霊的祝福です。
 自己中心で、頑固だった人が、ある日を境に隣人に仕え、奉仕する姿に変えられ、牧者として献身したいという時、牧者は心が揺さぶられ、感動の涙を流します。主の御前に人を立てる弟子としての人生を体験する時です。
 もう一つの喜びであり祝福は、信徒牧会者として仕えながら牧者自身が、弟子としての訓練を受け、内側から主イエスに似ていく成長の過程を体験することです。エペソ人への手紙の教えの通り、キリストの満ち満ちた身丈にまで達することが私たちの信仰生活ですが、このみことばを体験できる秘訣は、主イエスのように仕える人生を生きることです。
 趣味生活には時間とお金を惜しまずかけながら、隣人に仕える機会が与えられているのにも関わらず、牧場と教会生活には無関心で仕えようとせず、自分の体面ばかり気にする人がいます。趣味を大切にしても、信仰生活をないがろにして軽んじる人です。
 しかし牧者は違います。隣人のために仕えながら、人々が良くなっていくことを喜びながら生きる信仰の人なのです。牧者の皆さんを誇りに思います。

 趙 南洙師



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 全ての人は、キリストにあって一つの体であり、一人ひとりはその部分です(一コリント12:27) 。そのため、教会に属する信徒であるなら、教会の部分として主に仕える奉仕をささげましょう。我が教会では、信徒の方が二つの奉仕に関わってくださることを願っています。一つは、牧場で奉仕をささげること、もう一つは、教会で奉仕をささげることです。もちろん、賜物と必要に応じてもっと多くの奉仕をしている方もいますが、原則として一つの奉仕は必ずささげるようにしましょう。
 奉仕を選ぶときに、私は主任牧師としてお願いしていることがあります。一つ目は、簡単にささげられる奉仕ではなく、できる限り犠牲が伴う奉仕を選んでいただきたいということです。信仰歴が短い方や我が教会に属して間もない方であれば、比較的仕えやすい奉仕を選んでも良いでしょう。しかし、信仰歴がある程度長い方は、犠牲が伴う道を選ぶのが良いと思います。教会で奉仕が与えられたのは、教会のために責任を負うという献身をしたことであり、信仰が成長することは、その方の人生が犠牲の道を歩むために備えられたということを意味するからです。犠牲の伴わない奉仕は、趣味生活にすぎません。
 二つ目は、できる限り価値の小さなミニストリーより、価値の高いミニストリーを選ぶことです。神の御前にささげるミニストリーの中で価値のないものは一つもありません。しかし、その価値の程度の差は確かにあります。それは、人を立てることに直接関わる奉仕であるか、それとも間接的に関わる奉仕であるかの差にあると思います。
 特に、我が教会には、次世代を育てる教会としての使命が与えられています。次世代を育てることはスローガンをたてればできることではなく、祈りだけでできることでもありません。次世代のために犠牲を払う献身のゆえに可能となります。せっかく主のために仕える献身をしたのであれば、我が教会の次世代である子どもたちのための奉仕に携わってくださることを願います。我が教会の信徒であるなら、必ず、一度は携わるべきものとして、子どもたちのための奉仕を考えてください。
 教会の奉仕を選ぶ時、誰もができるミニストリーより、人が選ばないミニストリーを選ぶ方が増えていくことを願います。これは、我が教会の成熟度と関連のあることだからです。祈りをささげながら、自分の信仰と賜物の量りに応じて適切な奉仕を選び、仕えることにより与えられる恵みを味わうことを願います。

 趙 南洙師