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 聖書は、「神が天と地を創造された」という創世記の記述で始まっています。創世記は紀元前1446年〜1406年ごろ、神様がモーセに命じて記録させた真理のみことばです。聖書が創造の物語から始まっている理由は、「著者の特別な意図」を認識させるためです。
 「この創世記のみことばを最初に受け取って読んだ『第一の読者たち』はどのような人々だったでしょうか?」 「当時の『第一の読者たち』がどのような状況に置かれていて、神様はどのような意図をもって最初に創造の物語を記録させたのでしょうか?」このように「著者の意図」を理解しようとする時、聖書が語ろうとする本来の神の御声を正確に聞き、理解することができます。
 紀元前1446年〜1406年は、イスラエルが出エジプトした後、シナイ山で神様と契約を結び、40年の荒野での生活を終える時期でした。今まさに新しい約束の地を征服するための戦争を目の前にしている、非常に重要な時期だったのです。そしてこの創世記のみことばの「第一の読者たち」は、荒野で生まれた「出エジプトの第二世代」でした。彼らは戦争のための軍事訓練を受けていないどころか、一度も武器を触ったことのない世代です。当時の彼らは不確かな自分の将来に対する「不安と恐怖」でいっぱいだったでしょう。現実的には道が全く見えない状況に置かれていました。しかし神様はご自分の民に「カナンの地に入って、強くて恐ろしいカナンの戦士たちと戦わせ、その地を占領させる」と約束されます。
 まさにこのような混沌の状況に置かれた「第一の読者たち」のために、神様は聖書の初めにこの創造の物語を記録させたのです。「この地を占領させるわたしは、創造主である。初めに何もなかったところから天と地を、そしてあなたがたをも造られたのがわたしである。わたしがあなたがたと共にいて、この地を征服させ、あなたがたに与える。ですから、あなたがたはわたしとの約束のみことばを信じて、従いなさい。そうすればわたしが成し遂げる。」という、神の明確な御声を聞かせるために聖書の初めに創造の物語を記録させたのです。
 最近は真理のみことばである聖書さえも自分の都合に合わせて解釈し、自分が満足するために、自分の欲望を満たすために、誤用、乱用、悪用することまであります。このような時にこそ、新約の家の教会の核心価値である「聖書通り!」をしっかりと握って信仰生活をすることがいつにも増して重要です。「聖書通り!」とは、「聖書の著者の意図をまず知ること」です。「本来、著者は何を語ろうとされたか」を見つめ、神の御声に聞き従う時、健康で幸せな信仰生活を送ることができます。

趙 南洙師



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 使徒パウロがエペソを訪れたとき、すでにアポロを通してイエス様を信じている人々がいました。それでパウロは彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と質問しました。彼らは意外にも「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えました。
 もし、使徒パウロが今私たちに同じ質問するとしたら、皆さんはどう答えますか?少し残念な気持ちになりますが、クリスチャンでも聖霊について知らない方もおられるかもしれません。
 聖霊様は生ける神の霊です。そして聖霊様が私たちを導いてくださるとき、私たちは聖霊の感動を受けて悟りを得る聖霊体験をすることができます。もちろん、感動や悟りそのものが聖霊ではありません。それは聖霊による贈り物、すなわち、賜物のような体験といえます。
 聖霊体験は大きく分けて二つの形で現れると言えます。一つは、超自然的な聖霊体験。もう一つは、自然的な聖霊体験です。超自然的な聖霊体験は、霊によって祈る異言、悪霊を追い出す力、病を癒す賜物などを通して聖霊を体験するものです。しかし、このような神秘的な体験だけが聖霊体験とはいえません。自然的な聖霊体験もあって、それは私たちの人格(知性、感情、意志)を通した聖霊体験を指します。
 例えば、何よりもイエス様を救い主として信仰告白できることが聖霊体験です。2000年前にこの世に来られて、罪がないにもかかわらず十字架で処刑されたその方が、私たちの罪を含めて、絶望的な人類の未来を救うために代わりに死なれたこと。そして、その方が再びよみがえられたという復活の事実を理解し、信じられることこそ、聖霊体験と言えます。
 また、心配や恐れにとらわれている方が「神様が共におられるから全てのことが共に働いて益となる」と信じて、平安が与えられるのも聖霊体験と言えます。なぜなら、このような体験は人が努力して得られるものではないからです。それだけでなく、誰からも認められなくても黙々と奉仕を続けることも聖霊の慰めのゆえにできることですから、これもまた聖霊体験と言えるでしょう。
 超自然的であれ自然的であれ、このような体験をするのは、聖霊様の実体を体験することで、全てを治めておられる主なる聖霊の導きの中で生きていくためです。聖霊体験はとても大切なことですから、ぜひ慕い求めてください。

趙 南洙師