我が教会の32の牧場は、全ての信徒が所属する小さな教会としての役割を果たしています。そのため牧場をケアする牧者(夫婦)は、メンバーと一緒に祈りながら牧場運営の原則を決めて導いた方が良いでしょう。既に牧場運営の原則を決めたなら、もう一度それを点検し、まだ決めていないなら早いうちに牧場のメンバーと一緒に祈りつつ決めましょう。基本的に、次の三つの要素(目標)を含めて牧場運営の原則を決めてくださればと思います。
 第一は、神の愛による家族として恵みを分かち合うということです。創造主である神を知らないVIPが牧場に来られた時、彼らがクリスチャンや神に対して心を開く一番の理由は、自分は愛されていると感じるからです。無条件の愛を体験したことのない方が、牧者のあたたかい関わりと、メンバーたちからの豊かな関心を経験した時、自分は愛されているのだと気づき、究極的に神の愛を体験するようになります。そのようにして彼らの心は開かれ、私たちが信じるイエス・キリストを受け入れるようになります。
 第二は、牧場の祈りが応えられているという内容を必ず入れましょう。愛されていると感じることで神に対する心が開かれるのも事実ですが、「私も信じたい!」と決心するのは「ああ、本当に神は生きておられる!」と神体験をするからです。神体験は、ほとんどの場合、祈りが応えられた時に経験します。世の様々な問題の中で、自分の力の限界を感じたVIPたちは、全能なる神が生きておられ、自分を助けてくださると感じる時、神を信じたいと願うようになるのです。もちろん、既に信仰をもっている方も祈りの応答を通して信仰が成長し、神の栄光をほめたたえる証し者となるでしょう。
 第三は、牧場でキリストの弟子(牧者)が立てられるということです。牧場は魂を救い、弟子を作る神の共同体です。しかし、魂は救われても、弟子として成長できていないなら問題です。牧場を通して信仰生活を続ける時、私たちの品性と仕える姿勢は毎日成長していきます。同時に、私たちの姿を見て学ぶ人たちが弟子となります。弟子を作るとは究極的に言えば、人に仕える牧者が立てられるということです。したがって牧場の中に、神から召しが与えられ期待を持つ方がいて、周りの誰が見ても「次の牧者はあの人だ」と感じられるのなら、その牧場は新約聖書が教える通りの家の教会として歩んでいるといえるでしょう。

 趙 南洙師



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 長年「家の教会」を実践してきて感じることは、「家の教会の核心的価値」を掴むことの大切さです。家の教会による教会形成を教会成長の一つの方法として認識し、小グループを牧場に切り替え、リーダーの呼び名を牧者に変えても、「家の教会の核心的価値」をつかまなければ、本当の家の教会は建てられません。
 では「家の教会の核心的価値」とは何でしょうか。それは「聖書通り」ということです。聖書通りというのは、聖書が正しいと言えば正しいと認め、間違っていると言えば間違っていたと受けとめ、聖書がしてはいけないと言えばしないことです。これが「聖書通り」の意味です。このシンプルな理解と従順が伴う時、神が働いてくださいます。私たちの教会が「家の教会」を実践している理由は、新約聖書に記されている初代教会の姿が「家で集まる家の教会」だったと信じているからです。もし、私たちが実践している今の家の教会の姿より、さらに聖書的な教会の姿が見つかれば、私たちの教会は迷うことなくその事実を受けとめる必要があります。なぜなら、我が教会の核心的価値は「聖書通り」だからです。私たちの教会が「聖書通り」になるために重要な三つのことを分かち合いたいと思います。
 第一は、聖書を読む時、「著者の意図」を見つけることの大切さです。日々のみことばによって黙想し、説教や聖書を教える時、異端のように自分の思いや信念を押し付け、合理化するために聖書を利用することにならないよう注意しなければなりません。まず、聖書の著者であられる神が「本来何を教えるために書いたのか」という意図を見つけ、神の御声に耳を傾け従う時、私たちは神体験をすることになります。
 第二は、いつも「魂の救いと弟子作りのために益となるか」を考えることです。教会の存在目的は「魂を救い、弟子を作る」ことにあります (マタイ28:19-20) 。 牧場や教会で何かを決める時、「 どちらの方が賛成多数か」より、「これは本当に魂の救いと弟子作りのために益となるのか」を問いかけることの方が大切です。教会の存在目的にあてはまるのであれば、困難があっても行うべきですし、「魂の救いと弟子づくり」に関係のないことやむしろ邪魔になることはしてはならないのです。
 第三は、すべてを決定する最終の権威と基準を「聖書」に置くことです。私たちは聖書を神のみことばであり真理だと信じますと告白しながら、実際に何かを選択したり、決めたりする時には世の知識や守ってきた伝統、そして自分が経験してきたものを優先することが多々あります。そのため私たちが聖書的な喜びの信仰生活を行い、健康な教会の姿を目指すためには、すべての選択・決定の最終権威と基準を「聖書」に置かなければなりません。その時、私たちの信仰生活はもっとシンプルになり、だんだん神の知恵と力によって生きる姿へと変えられるでしょう。

 趙 南洙師



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