「信仰を持ちたいと願い、信仰を求める祈りもささげてみましたが無駄でした。」と言う人がいます。長い間教会に通っているにも関わらず、神の存在や自分がキリストによって救われたという確信が得られないまま悩んでいる人がいます。
 このような時に覚えておきたいのは、懐疑的になることや、疑う心が生まれること自体は間違っていないということです。性格によっては、すぐに信じられる人もいれば、何事も疑ってみる人もいます。疑い深い方は、時にその疑り深い性格によって悩むこともあります。ひどい時には「どうやら私はキリスト教の信仰とは合わないようだ」と思ったり、「私はこの教会とは合わないかもしれない」と簡単に結論づけて、教会や牧師から離れたりします。
 しかしこうなる理由は、たいてい信仰が感情的なものだと勘違いするからです。もちろん信仰を持つ人々が感情的に喜びを感じ、満たされる思いを味わいながら生きることは事実ですし、感情は人の気質と深く関わっているのも事実です。また、感情は変わりやすいため、感情を中心に判断すると失望するようになります。
 まず、信仰と懐疑的な思いは共存することがあると認める必要があります。むしろ、全く疑う心なく受け入れた信仰の方が健康的でない時もあり、苦難が訪れた時には崩れやすいこともあるからです。たえずしのび込む疑いを乗り越え、信仰に至る心こそ、本当の信仰だと言えるでしょう。
 信仰は、いつも信じようとする意志と決断から始まります。信じてみるという思いは、自分の足りなさを認めることです。自分の意志によっては自己を正すことができないということと、世の中には自分の力で成し遂げられないことが多いということを認める。つまり、弱い自分を認めつつ、自分よりはるかに偉大な方に人生を委ねてみようとする決断なのです。
 とはいえ、信じるに値するすべての証拠があるから、このような決断をするのではありません。むしろ信じるに値するたくさんの証拠があり証明されたとしても、それは事実や情報であって信仰の対象にはなりません。神様はすべてのものを用いてご自身を証明しようとはなさいません。なぜなら、愛の関係は常に証明される事実や情報により生まれるものではなく、信じると決心する時に生まれるからです。
 神様は「信じてみます」と決心するあなたを通して働かれます。そういうあなたに神を体験させ、主を味わい知らせます(詩篇34:8)。このような神の善を味わって受け入れた人こそ、人生のまことなる幸せを告白できるようになるのです。

趙 南洙師



 リーダーになることを簡単だと思う人はいないと思います。また、誰もがリーダーになれるのだと思う人もいないと思います。むしろ、リーダーになることを避けたり、拒んだりする人の方がより多いのではないでしょうか。いずれにせよ、リーダーとして立てられたならば、人々を成功に導くリーダーになるのが、自分自身にとっても、共にするすべての人々にとっても、幸せだと思います。私は、我が教会の牧場のリーダーである牧者の皆さまが、牧場のメンバーや周囲の人々の成功を助けることにより、幸せになれることを常に祈っています。
 しかし、私を含めてリーダーである方が人々を立てるのではなく、むしろ人々を傷つけてを失ってしまう時があるため、とても残念な思いをすることがあります。そのような時は、リーダーが高慢になっている時です。
 聖書が語る「高慢さ」とは、神様が忌み嫌われる行動と態度です。そのため聖書では「心の高ぶりはすべて主に忌み嫌われる」(箴言16:5)と語られています。
 では、リーダーとなった人が注意すべき「高慢さ」にはどのようなものがあるでしょうか?一般的なリーダーシップの教えから学んだ内容ではありますが、10の要素を紹介します。
  ①自分がリーダーだからと常に他人の話だけをあげつらね、自分の素直な話はしない。
  ②共に働きながら、責任の一部を他の人に委ねることができず、他の人を立てることをしない。
  ③決して「間違いました」と事実を認めず、常に自分だけが正しいと頑固な主張をする。
  ④決して「申し訳ありません」、「許してください」という言葉を口にしない。
  ⑤多くの言葉や事を誇張して表現する性質がある。
  ⑥他人が自分より認められたり、名誉を得たりすることに耐えられない。
  ⑦有名な人々の名前を用いることで、自分の立場を高めようとする。
  ⑧自分の事を批判する人をできる限り避けて生きる。
  ⑨自分の発言に対し、人々からの肯定や励ましがない時にはすぐに失望する。
  ⑩このようなリーダーは神の前で祈る時間を無駄だと考える。
 聖書は、「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ」(箴言16:18)と語ります。私たち皆が謙遜なリーダーとなり、私たちが仕える隣人の成功を見ることを喜びとする幸せな人生になるように祈ります。

趙 南洙師



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 自分を知り、自己のアイデンティティを認識することはとても大切です。「アイデンティティ」とは、変わらない存在の本質を悟る性質、またはその性質を持つ独立した存在であると定義されています。最近注目されているChat GPTに「自分のアイデンティティを見つけるためにはどうすればいいですか?」と尋ねてみました。すると「アイデンティティは、個人が自己を認識し、理解する方法を示しています。それを見つけるためにはいくつかの問いが必要です。『私は誰か』など、自分について考え、持っている特徴や能力、性格などを書いてみるのも良いです。または『自分が望んでいることは何か』など、自分の価値観や目標を考え、どのような人生を望むのか、その方向を整理してみるのも良いです。」と答えてくれました。
 しかし私は、このような方法で自己のアイデンティティを見つけるより、私を造られた神様が、自分のアイデンティティについてどう語っておられるかがもっと重要だと思います。「いのちの道」コースの学びで伝えた内容でもありますが、次のようにまとめることができます。
 第一に、私たちは神様との関係において「愛されている神の子ども」です。これは、エペソ人への手紙5章1節において確認できます。「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。」私たちは自分の人生の救い主としてイエス・キリストを受け入れた時から、自分の行いとは関係なく、神の偉大な愛をいただく子となりました。今は自分の内に神の似姿に変えられていくDNAが宿っている尊い存在となっています。
 第二に、私たちは御子イエス・キリストとの関係において「キリストの花嫁」です。これは、コリント人への手紙第二11章2節において確認できます。「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。」私たちはイエス・キリストとの聖なる結婚を約束された者として、ますます主を愛する心が大きくなりました。私たちの人生の最後は、最も喜ばしい結婚の祝宴において完成されるため、日々聖なる生き方を望むようになりました。
 第三に、私たちは御霊との関係において「神の聖なる宮」です。私たちの体は自分のものではなく、キリスト御自身の血潮により贖われた、イエス・キリストのものとなりました。これは、コリント人への手紙第一3章16節において確認できます。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」私たちの内には神の御霊が共におられることにより、神の栄光を現す「神の宮」として日々歩む存在となりました。そのゆえ、神の臨在と栄光をますます望む生き方へと変えられます。これらのすべては、神の愛であり、恵みなのです。

趙 南洙師