タレントであり、小説家でもある阿川佐和子さんの本、「聞く力」の序文に、「上手く話す人には耳をひらくが、良く聞いてくれる人には心を開く。誰かの話を聞いてあげること、それは力です。」という言葉があります。全くその通りであり、素晴らしい教訓だと思います。
 自分の考えを伝えたいという思いが先立ち、相手を説得しようと熱心に自分ばかり話していると、むしろ相手が心を閉ざしてしまいます。ですから、自分の言葉をたくさん並べるより、相手の言葉に耳を傾ける姿勢がもっと大切だと思います。
 語る力は聞く力によって培われるものだと言います。良く聞くからこそ上手く話すことができるのです。子どもは生まれたら、話すことが先ですか?それとも聞くことが先ですか?当然、聞くことから始まります。数万回「ママ」という言葉を聞き、「ママ」と言えるようになるのです。では、どのようにすれば良く聞く姿勢になれるのでしょうか。私もまだそれらについて学んでいる途中ですが、正しく傾聴する姿についていくつかを分かち合いたいと思います。
 第一に、傾聴は受動的な姿勢ではなく、積極的に聞く姿勢を持つことだということです。つまり、「私はあなたの言葉を聴く準備ができています。」という姿勢をもって相手に接するのです。
 第二に、生半可な予測はしないことです。そのためには、相手の話の全てをそのまま受け入れる姿勢が大切です。相手が話す前に勝手に予測したり、断定したりする姿勢は、傾聴を妨げるとても危険な行動です。
 第三に、相手の話の途中に質問をすることです。会話の途中、まるで卓球のラリーのように、互いに言葉をやりとりすることで、「あなたの話をしっかり聞いています」という意思表示となり、とても良い傾聴となります。
 第四に、相手の目を見ながら聴くことです。当然のことですが、聞いている側が話しをしている人を見ていないと、無関心なように見えてしまいます。そのため、相手の目を避けず、しっかり見ながら聞いた方が良いでしょう。
 第五に、関心を示しながら聴くことです。また、相手の話をきちんと聞いて、話し終わるまで待つ姿勢が必要です。その時に相槌をうちながら聞くことで、相手の心をつかむことができます。「そうだったのですね。」「それでどうなりましたか?」「それは辛いですね。」「それは嬉しいですね。」など、共感しているとわかるように相槌をうちながら聞くことで、互いの心は通じるようになるのです。まず、牧場の中で実践してみるのはいかがでしょうか。

 趙 南洙師



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 信仰生活において覚えておくべきことの一つは、時間と共に私たちの信仰も成長すべきだということです。私たちが子どもの時期を経て成長し、大人になり、そして親として成長し続けているように、信仰も同じく子どもから大人の信仰へ、そして親としての信仰へと成長しなければなりません。
 成長期において何よりも大切なことは教育(しつけ)です。やりたい放題、全てのことを子どもに任せる親はいません。というのは、子どもが自由の本当のすばらしさを理解することは難しいため、その都度、教え諭すのが効果的だからです。時には、厳しく教えた方がもっと効果的かも知れません。聖書において「しなさい」、または「してはならない」と、ストレートな戒めが多く書かれているのは、子どものような信仰者が多かったためかも知れません。しかし教育する時にもっとも大切なのは、あたたかく抱きしめるような愛情です。そうすることにより、親は怖いだけの存在ではなく、自分を愛しているのだと子どもが理解するからです。信仰の幼い人は、祈りの応答が多いにもかかわらず、神さまに対して条件と益を追い求める傾向があり、また律法的になりがちです。
 しかし、このような信仰にとどまるべきではなく、大人の信仰者へと成長しなければなりません。大人は「する」「しない」といったことで恐れたり、罪悪感を持ったりしません。むしろ、愛に基づいた関係性の中で、信頼と自発的な犠牲を持って行動します。つまり、仕方なくする行動ではなく、愛する夫婦が互いのために喜んで仕えるような、自ら喜んでささげる犠牲なのです。
 私たちが大人の信仰者として成長するのは、子どもたちと接することを通して「忍耐することで成熟していくことを学ぶ」からではないか思います。例えば、幼児期は、むずがっても目を離すことなく世話をする必要がありますし、思春期になれば、訳もなく反抗する子どもを受け入れる忍耐と理解力が必要となります。このような子どもの姿が、実は自分の姿であることに気づくことで、高慢になるのではなく、むしろ謙遜になることを教えられます。そして、これらの愛に包まれて成長した子どもが親元を離れる時、親は子離れの痛みを通して人生のさらなる意味に気づきます。
 このように、私たちの信仰を成長させるのは、親の心で大人の信仰者として、自己中心ではなく、他者を中心として生きる時です。人に仕え、受け入れようとする時、私たちは忍耐を学び、試練の意味に気づきます。そして、その試練を通して私たちは神さまを知るのです。また、私たちの労苦が自分の栄光ではなく、神の栄光となることを求める時、私たちは神の似姿へと変えられます。このように、信仰は次のステップへの成長の過程が必要です。

 趙 南洙師



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