全能なる神であるイエス・キリストは、私たちを救うために十字架という犠牲の道を歩まれました。それゆえ犠牲には、魂を救うための霊的な力があることを教えられます。つまり失われた魂を救い、主の弟子を作るために、私たちは犠牲を払う必要があるということです。その積み重ねた小さな犠牲は、魂を救う力として用いられます。私たちが実践できる、「魂を救うための礎になるような犠牲」を考えてみました。
 まず時間の犠牲です。時間は忙しい現代人において何よりも大切なものです。しかもネットの発達により、人々が仕事に関わる時間はさらに長くなりました。
 時間の余裕は少なくなりましたが、娯楽は増えました。昔は考えもしなかった趣味や楽しい旅行、ゲームやレジャー、運動、そして日々確認するSNSなど、やるべきこと、やりたいことが増大した今の時代において、時間は限られており何よりも大切です。それにもかかわらず、他者のために限られた自分の時間を割いて使うことは大きな犠牲であり、人に感動を与えます。特に、苦しみを抱えている隣人のために自分の時間を割いて仕えることは、一人の魂を救うためのきっかけ(犠牲)となるかもしれません。
 次にお金の犠牲です。近代は、昔より貨幣の価値が下がったと言われます。一万円で買えるものが以前より少なくなりました。しかしその反面、以前より支払わなければならないお金が増えたため、一万円が持つ効果は前より大きくなったとも言えます。つまり、現代は皆、自分のお金をさらに大切にしないといけない状況の中にいるのです。このような中で、他者のために惜しまず自分のお金を出す(犠牲)ことに、大きな感動が伴うのです。
 食堂で知り合いに会った時、自分がその支払い一緒に済ませたり、カフェで列の前の人が財布を忘れた時、喜んで自分のものと合わせて支払ったり、同僚のために、休憩時間にコーヒーを一杯買って差し上げたりするなど、生活の中で分かち合う小さな犠牲により、私たちを見る周りの目は大きく変わります。またこのような行動は彼らの魂を救うためのはじめの一歩、きっかけになるかもしれません。
 しかし、私たちが払わなければならない一番大きな犠牲は、どのような状況においても、クリスチャンらしい姿で生きることかもしれません。職場や学校、または家庭の中で予想もつかない出来事に出会った時、怒ることなく平安を保ちながら話し合い、さらに相手に譲歩する犠牲を払えるのなら、そのような私たちの姿は、必ず誰かの魂を救うために神に用いられると信じます。

 趙 南洙師

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 ヒューストン・ソウル教会は30年間、家の教会を実践し、その恵みを全世界へ発信しています。主任牧師であるイ・スカン先生は、家の教会(牧場)で共にしている「お家の温かいご飯の意味」についてこのように紹介しています。「私の娘は小学校1年生の時から牧場の中で育ちました。高校を卒業してからはテキサス州の州立大学があるオースティンに引越し、セルグループの交わりがある英語圏の教会に所属しました。セル(小グループ)のリーダーになった時、娘はセルの交わりを全て牧場の運営に切り替え、毎週、食事を準備してメンバーを招きました。すると6人だったメンバーは、すぐに25人に増えたそうです。娘は、現在、大学を卒業して再びヒューストンに戻り、会社に勤めながら我が教会の英語礼拝に参加しています。そんな娘に食事について質問をしたところ、迷わず『もちろん、料理がおいしいからって牧場がうまくいくわけではないわ。でも、食事も準備せずうまくいく牧場はないでしょう?』と答えました。これは名言だと思いました。」
 新約聖書を見ると、イエス様はいつも人々と食事を共にしながら働かれたことに気づきます。パリサイ人や収税人たち、罪人たちとはもちろんのこと、弟子たちと最後の時間を過ごした時や復活の後の再会の時、過ちを犯したペテロを慰め、再び召命を与えた時、イエス様はいつも食事を共になさいました。イエス様は明確な意図を持って食事を共にしていたことがわかります。これらのことから、教会と食事を共にすることは切り離せない関係であることを知ることができます。
 イエス様が天に昇られ、ペンテコステを通して教会が誕生した際、弟子たちは「家々でパンを裂いた」と聖書には書かれています。イエス様を3年間、隣で見てきた弟子たちにとって、このような姿勢は当然の姿だと言えるでしょう。
 この聖書の教えがわからない方々は、「牧場で必ず食事を共にする必要はあるのだろうか、ただお茶だけ一緒にすればそれで良いのでは?」と思うかもしれません。このように思う方々は、家で愛が込められた食事を共にすることの本当の力をまだ経験できていないのだと思います。
 もちろん、いつでもお金さえ払えば、食事は周囲の飲食店でいくらでも食べることができます。しかし、家で準備した温かいご飯には、飲食店のものとは比べ物にならないほどの愛と配慮があります。誰であっても、自分のために愛を込めて用意された食事であれば気づきます。牧場で一緒にする食事はただの食事ではありません。愛が込められた料理であることを良く理解しなければなりません。愛を込めて用意した食事にVIPを招く時、VIPは「私のためにこれだけの準備をしてくれたのか」と感動を受けます。ソーシャルディスタンスを取らねばならないコロナ禍が早く収束して、このようなお家での温かいご飯の喜びが、我が教会でも再び回復できることを祈ります。

 趙 南洙師

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