聖書には、人の力ではどうにもならない厳しい状況の中でも、共にとりなし祈ることによって、信仰により神と歩んだ人々の話がたくさん書かれています。武器も力もなかったイスラエルの民が、アマレクと戦っている間、モーセの両手を隣で支えながら共にとりなしたアロンとフルがその例です。神様はそのとりなしの祈りに応えてくださり、アマレクとの戦争にイスラエルは大勝利しました。また、ペテロは処刑されることが決まっていましたが、その前日に牢獄から助け出されたのも、教会のとりなしの祈りがあったからこその恵みでした。
 事情は様々でしょうが、誰もが予期しない苦しい状況に直面する時があります。それは例えば、自分の力ではどうにもならず、一歩も踏み出すことができないような環境にいる時、四面楚歌の中で重要な決断をしなければならない時、VIPの魂が救われることを願う時、病で疲れ果てた自分が癒されることを願う時、心の奥底から深く神様と交わりたいと願うのに霊的戦いで苦戦する時…など、私たちの人生の歩みの中で、一人ではとうてい乗り越えられないような様々な状況が現れます。
 このような時、まず私たちは何をすれば良いのでしょうか。どのようにすれば神の力によって再び立ち上がり、壁を乗り越え、希望に向かって歩むことができるのでしょうか。それは、迷うことなく教会に「とりなしの祈り」を求めることです。教会においてある緑色の「とりなしの祈りカード」に祈祷課題を書いて、「とりなしの祈りのボックス」に入れてください。そうすれば、訓練されたとりなしの祈りの奉仕者たちが、神に誓約した週1時間を聖別し、皆さんのために集中してとりなし祈ります。私たちが献げたとりなしの祈りに、神様は最善をもって応えてくださり、皆さんの人生に奇蹟を起こしてくださいます。
 「とりなしの祈りカード」に書かれた祈りをとりなし祈る奉仕者たちは、祈りの訓練を受けてから仕えています。「とりなしの祈りカード」に書いて出すと「個人情報が漏れて噂になるのでは?」と心配になるかもしれませんが、皆さんの出した祈りの内容は、徹底的に守られ、口外されることはありません。ですから、つらいことや重要なことなど、一人で悩まず、心配せず、ぜひ積極的に「とりなしの祈りカード」に書いて提出してくださればと思います。
 互いに話し合い、議論するより優先するべきことは、神様に心を注ぎ、祈り叫ぶことです。我が教会の全信徒が神の家族の共同体としてとりなしの祈りを献げる時、素晴らしい恵みによって応答された神体験ができることを願います。祈りが応えられた時には「祈りの応答カード」をぜひ書いてください。それを礼拝で証ししてくださることにより、さらに恵みあふれる我が教会になることを心から願います。

 趙 南洙師

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 コロナ禍が長くなり、ソーシャルディスタンスを取ることに慣れたゆえに、自分でも知らないうちに、信仰生活に倦怠感を覚えたり、怠惰になってしまった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 牧師のチャールズ・スポルジョンは「信仰生活において一番危険なことはマンネリ化に陥ること」だと言います。信仰がマンネリ化すると、形式的な宗教生活になってしまうことが多くなります。この危険性は牧師も同じです。マンネリ化すると、主日の説教に対する負担感が大きくなり、聖書勉強においても確信がなくなり、語る勇気が失われます。自分でもわからないうちに感謝がなくなり、不平不満を口にするようになります。もし皆さんの中で、教会での対面の礼拝や信徒との交わりが面倒だと感じたり、聖書の話を聞きたくないと思う人がいるのであれば、信仰のマンネリ化に陥っているかもしれません。
 では、どのようにすれば、信仰のマンネリ化を克服できるのでしょうか。まずは、自分の心の状態を確認しましょう。私たちの心は、ガラスのように割れやすいものです。一度傷ついてしまうとひびの入った状態になり、意気消沈し、消極的になります。しかしこのような時こそ、自分の心の主人は主イエスであることを告白し、キリストが自分の人生を治める方であることを認めなければなりません。主イエスの愛と赦しによって心が癒される経験をしなければなりません。また、心の中に、いのちを吹き込む時間を持たなければなりません。みことばを黙想し、信仰の本を読むことを通して柔らかい心になる必要があるでしょう。
 そして、祈りの生活を振り返る必要があります。「祈りは言うより、聞くこと」だと言います。神様に自分の思いを告白し、神の御声を聞くこと。これが祈りです。私たちは神の御声を聞かない限り、新たな力をいただくことができません。神の御声が聞こえないからこそ、自分勝手に行動し、過ちを起こすようになるのです。祈りに失望した人の特徴は、神が共にいることを忘れ、自分が人生の主人となることです。しかし、神の国への心が燃えている人は、みことばと祈りの場で神の御声を聞くため、厳しい環境の中であっても喜びと感謝があふれ、期待に満ちています。そして、その実が小さくても、教会と隣人に仕えて結んだ実を味わい、マンネリ化を克服することができます。
 いつ実を結ぶのか先の見えない時、神様が遠くおられるように感じ、自分とは共におられないと思って信仰のマンネリ化に陥ることが多いのではないでしょうか。もちろん、奉仕は実を結ぶことよりその動機が大切です。しかし時間が経つと共に、実りがないことに疲れ、確信が揺らぐこともあります。ですから小さな実りであっても、それを大切にする必要があります。全ての方が健康な信仰を取り戻せることを祈ります。

 趙 南洙師

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