ある教会では何年かごとに牧会者を変えているという噂を聞いたことがあります。牧師が赴任した時には好意を持っていても、時間が経つと不満が生じ、その結果、プレッシャーを受けた牧会者が教会を離れていくそうです。この教会では牧師に対する信徒の期待が高かったため、人格的に優れていること、説教も感動を与えること、そして事務能力が備わっていることが求められました。
 もちろん、信徒から牧師に期待を持つことは当然のことでしょう。しかし、必ず覚えなければならないのは、この世に完璧な牧師はいないということです。説教が上手な人であれば事務能力は低かったり、親和性に富む人であれば推進力は弱かったり、迫力があれば頑固な人だったりするでしょう。全ての牧師は長所と短所、強みと弱みを両方持っています。そのため、不完全な牧師であっても、信徒は受容する姿勢を持たなければなりません。ここには三つの理由があります。
 一つ目は、赴任した牧師を受容しない限り、先ほど言及した教会のように教会は分裂し、牧師がいなくなってしまう試練を続けて経験することになるからです。完璧な牧師はいません。二つ目は、全ての信徒の期待に応えられる牧師はいないからです。信徒の期待と好みはさまざまで、むしろ互いに相反することもあります。牧師は全ての信徒に合わせられないのですから、むしろ、信徒が牧師に合わせた方が知恵のある姿だと言えるでしょう。三つ目は、足りないと思われる牧師を受容しようとするとき、信徒自身も成長するようになるからです。従いたくない人に従い、尊敬できない人を尊敬しようとするとき、人は謙遜になり、寛大になり、忍耐を学び、キリストに似た者へと変えられるのです。
 不完全な70点の牧師であっても、信徒が長所と強みを育て上げるなら80点、90点の牧師へと成長できます。ですが、短所と弱みばかり責めるなら、60点、50点の牧師に転落してしまうでしょう。もちろん招聘の時は慎重を期すべきですが、一度主任牧師として受け入れたのなら牧師の個性も受け入れ、弱みまでを受容し、庇うべきであります。牧師を愛さなければなりません。
 韓国出身の私が日本での約36年間の牧会を担えたのは、我が教会の信徒の皆さんが、私自身の短所と弱みを庇い、長所と強みを引き上げてくださったからだと思っています。共に覚えなければならないのは、弟子たちのために祈ったイエス様の最後のとりなしの祈りは、弟子たちを一つにする祈りだったことです(ヨハネ17:21-23)。魂を救い、弟子を作るためには教会が一致しなければなりません。牧会者と信徒は一つにならなければなりません。なぜなら、争い、分裂する教会であるかぎり伝道は行えないからです。

 趙 南洙師

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 主のからだである教会に献げる献金のことをお伝えしたいと思います。献金というのは、我が人生の主人は神であり、また所有物も自分のものではなく、神から託されたものであり、ただ自分はその管理者にすぎないことを認め、その信仰の告白として所有物の一部を神に献げることです。そして教会は、神に献げられた献金を透明に管理し、みこころに従って用いる必要があります (Ⅰコリント16:3)。
 献金には、神に対する「心を尽くした愛の表現」という原則が必要です (Ⅱコリント9:7) 。そのため、惜しまず、最善を尽くして献げなければなりませんが、それが強いられたものになってはいけません。そして同時に、神に対する自分自身の信仰のチャレンジにもなる必要があります (Ⅱコリント9:8) 。つまり、所有物を献げる時、自分でも理解できない神の恵みによって豊かにされ、周りまで恵みがあふれ、流れ出す神体験が必要です。
 献金は、自分の収入に応じて、前もって備えて献げなさいと聖書は教えています (Ⅰコリント16:2) 。つまり、その場の思いつきで献げるのではなく、心から献げる額を決め、備えて献げなさいということです。そのため献金は、礼拝に向け心を備え、前もって準備し、献金の時間に「私の全てを献げます」という心をもって謙遜に献げなければなりません。近代の教会では、振込みによる献金、または、入口に用意された献金箱に静かに献げるという方法も用いています。ですが我が教会では、献金に含まれた献身の意味がとても大切であると考え礼拝の中に献金の時間を設けています。
 献金が透明に管理されなければならないという原則は自分自身にも適用されるため、献金は記名して献げるのが良いでしょう。「右の手がしていることを左の手に知らないように」と聖書に書かれているので、献金も無記名の方が正しいと思いがちです。ですが、神と教会の御前において「自分の所有物を透明に管理する」という献身の意味で、記名の方が正しいと思います。
 聖書は献金のことを「蒔く種」であると言います (Ⅱコリント9:10) 。1年の稲作を通して得られた米を全部消費してしまう農業者はいません。必ず、一部を次年の稲作のための「蒔く種」として残します。そして、田んぼはその蒔かれた種を通して何十倍、何百倍に増した米を農夫に返します。聖書は私たちの所得が稲作のようなものだと教えます。自分が額に汗して得たものだからといって全てを消費してしまうのは、「蒔く種」まで残さず食べてしまう愚かな農夫のような人だというのです。「蒔く種」は必ず残さなければなりません。そして神様は、蒔かれた種を通して何十倍、何百倍のものを私たちに与え、豊かな人生にしてくださるのです。全ての信徒の方が自分の所得を透明に管理して、神からの祝福を豊かに与えられるように願います。

 趙 南洙師

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