以前、ハーバード大学を首席で卒業した学生と指導した教授とのインタービュー記事を読んだことがあります。記者は教授に、「この学生を指導する時、一番大切な人間性の育成についてどのように教えましたか?」と質問しました。その時、教授が答えた言葉は未だに忘れられません。「私は全ての人々に挨拶をきちんとして生きるように教えただけです。」
 挨拶をきちんとすることは、社会の中で一番重要な基本となるマナーです。経験がある方はご存知だと思いますが、いくら仕事や勉強ができる人であっても、その人に挨拶のマナーが欠けていると、優れた人としての印象は残りません。その反面、気さくに挨拶ができる人の場合は、腕や能力が少し足りないとしても、その短所は目立たず、良い印象が残るので長所が目立ちます。そのため、成功した人生を送りたいと願う人は必ず、挨拶をきちんとするマナーを身につけるべきです。
 我が教会も、小さな子どもから年配の方まで、信徒みなが挨拶をきちんとする人になってほしいと思います。そして、ただ単に挨拶をするのではなく、せっかくの機会なので礼儀正しく挨拶をするようにしてほしいと思います。挨拶は、心に抱く感情と外見が全体像として伝わるので、挨拶をする時は、内面の親切・誠意・感謝の気持ちを正しく、明るく伝えなければなりません。
 そのため第一に、教会学校の集まりなどで、礼儀正しく挨拶をする習慣が身につくように繰り返し訓練したらいいのではと思います。「こんにちは」と声を出して挨拶すると良いでしょう。大人たちは、そのように挨拶をする子どもを見かけたら必ず褒めてあげて、子供たちに挨拶をする喜びを知ってもらえるようにしましょう。
 第二に、信徒のみなさんが、初めて教会にいらした方や他の信徒と会ったらまず、挨拶を交わすと良いと思います。単なる目礼ではなく、「こんにちは」と声を出して挨拶をすると良いのではないでしょうか。コロナ禍によりお互いに握手することを控えるようになりましたが、グータッチで挨拶しても良いのではないかと思います。
 第三に、「挨拶をする」ことに等しく重要なのが「挨拶に応える」ことです。誰かが挨拶をしてきた時、それを無視してしまうと挨拶をした人が気まずくなるだけではなく、もしかしたら心に傷を負うかもしれません。このような場合、人間関係がぎくしゃくする問題へ発展しがちです。私は時折とても残念な気持ちになる時があります。それは、「我が教会のリーダーの中には、自分から挨拶もせず、挨拶されても応え方を知らない人がいる」といった話を耳にすることがあるからです。
 挨拶ができる子どもや信徒は、世の中のどこでも認められる人になると思います。そのような教会は多くの魂を得ることになり、世の中でも神様の栄光を現しながら、堅く築き上げられていくと思います。

 趙 南洙師

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 家の教会のミニストリーを長年実践し続け、信仰として定着させて来た教会の特徴は、牧場ごとに牧会のスタイルが異なるこどです。なぜなら、家の教会は小グループではなく一つの教会であり、牧場の牧会者である信徒がそれぞれの個性と賜物を持っているからです。しかし、それぞれの牧場に特色があるとしても、幾つかの明確な方向性については同一であるべきです。
 一つ目は、牧場という信仰の交わりを通して、イエス・キリストの愛を味わうことです。宗教に対する信頼が落ち、神様を呼び求めなくなったこのような時代の中で、VIPの方が牧場に訪問した時、クリスチャンに、そして、神様に心を開くようになる一番大きな理由は、愛されたと感じるからです。牧者の温かいケアや牧場メンバーが関心を持ってくれることにより、自分が愛されていると感じ、究極の神の愛を体験するのです。とはいえ、その愛がVIPだけに集中すると、むしろVIPは負担に思い、その意図を疑うようになります。そのため、VIPに集中する一方的な愛よりは、牧場メンバー同士の家族愛を超えるような真の愛が重要です。
 二つ目は、牧場で牧員みなが一緒に祈ることで神の答えを身近に分かち合うべきです。愛によって心は開かれます。しかし、「今日から私も神様を信じる!」という心の決心は、「ああ、神様は本当に生きておられる!」という経験から生まれるのです。これらの体験は祈りの応答を通して与えられます。そのため牧場では、降り注ぐ雨に体が濡れるように、絶え間なく注がれる牧場メンバーの祈りの応答を経験することが必要です。自然な形で経験するためには、小さな祈りの応答を味わう必要があるでしょう。したがって、牧者はいかなる小さな祈祷課題であるとしても、共に祈祷課題を覚えて祈り、そして、応答された時には、共に祝い、喜ぶことを忘れてはいけません。
 三つ目には、牧場では必ず、次の牧者を育てることです。牧場は魂を救い、弟子を作る共同体であるのにも関わらず、魂は救うものの弟子が育たないのなら、その牧場は問題を抱えていることになります。家の教会が定義する弟子とは、イエス様の品性を持ち、ミニストリーを行い、自分も学ぶことを通して、イエス様のような人格になっていく人のことです。つまり、弟子作りとして期待する究極の形は、隣人に仕える牧者を立てることにあります。したがって牧場の中で、誰が見ても「あの人は、私たちの次の牧者だ!」という信徒がいて、またその人自身にも、献身する良き心構えと期待があるのなら、その牧場は健康な牧場であると言えるでしょう。

 趙 南洙師

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