8月15日は終戦記念日、または敗戦記念日として、過ぎ去った戦争に対する反省と共に辛い過去を忘れないように覚える日です。侵略をはじめ、いかなる理由があるとしても、戦争は私たち全ての命を脅かし、苦しめます。
 アメリカの女性小説家で、社会運動家であるスーザン・ソンタグは、著書「他者の苦痛へのまなざし」の中で、「写真」がある戦争とない戦争の間には渡ることができない大きな隔たりがあると述べます。著者は、アメリカ同時多発テロで世界貿易センターを破壊されたアメリカが主体となり行ったイラク戦争と、それ以降の政治情勢に対して悩みながら、「私たちは戦争を行うことによって、どのように他者の苦痛を生み、消費してきたのか。」と述べ、このように恐ろしいものを見たいという欲求「軽蔑すべき衝動」に対して強く批判すると共に、私たちがこれから解決しなければならない最優先の課題だと主張します。
 著者は戦争を、「写真に残す政治的パフォーマンス」だと強く批判します。戦争を行う人々は自分たちを合理化するために、非常に悲惨な戦場の写真を撮り、人々にそれらを見せ、煽動します。そのため、多くの人々は、戦争を始めた自分たちの判断が正しいと正当化するのです。
 何も知らない多くの市民は煽動されますが、しかし、扇動されずに理性的かつ正義のために立ち続ける一部の人々がいます。「なぜ、他国の人々を殺し、倒さなければならないのか。」「このような戦争は正しいと言えるのか。」など、多くの理性的問いに対して、私たちの意識は良心的に悩むようになります。
 戦争とは、お互いが信頼できず、弱肉強食のように弱い者の人生を奪うために行うことです。これに報復して自分の権利を取り戻そうとする行為をテロと言います。私は戦争を直接経験した世代ではありませんが、戦争の影響を受けた世代です。戦争のため、多くの人々は苦しめられ、貧しい生活をしなければなりませんでした。
 自分と気が合わないからという理由で他者を殺すのなら、おそらく私たちは毎日お互いを殺す戦争の中で生きなければなりません。そして、殺し合う戦争から生き残るために、暴力的に自己鍛錬に没頭するようになるでしょう。しかし、世界は強者だけが支配するのではありません。むしろ、力のなさそうな小さな存在が、秩序という創造の原則に基づき、世界を動かしていると言っても過言ではありません。残念なことは、このような当たり前のことを無視して生きる人が多いということです。そのため、もどかしく、悔しい思いをする時もあるでしょう。
 戦争という暴力に屈服するしかない自分の弱さに挫折しながら生きるより、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)という、主イエス・キリストのみことばを宣べ伝える勇気を持ち、戦争のない世界を生きることを望みます。

 趙 南洙師

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 主日礼拝に参加して「神様が私と共におられる」ことを感じる時 、私たちは「神体験する」と表現します。神様がご臨在される礼拝は、礼拝に参加した人々に平安と喜びを与え、また一週間を生きる力も与えます。とはいえ、礼拝に参加した全ての人がこのような恵みを受けてはいないようです。むしろ、神様のご臨在を体験せずに、礼拝堂から帰る人々もいます。なぜ、このような差があるのでしょうか。同じ場所で、同じように礼拝を捧げているのにも関わらず、ある人は神様を体験し、ある人は体験することができません。このような差が出る理由は、礼拝を捧げる人の姿勢にあると思います。大きく分けて、二つの点から共に考えてみましょう。
 一つ目は、「期待を持って礼拝しているか?」ということです。多くの人々にとって礼拝は、義務的習慣になっているように思います。そのため、日曜日になると何も考えず礼拝に参加します。もちろん、礼拝は義務であり、習慣になるべきです。ですが、それが礼拝の目的になってはいけません。私たちは礼拝に対する期待を持たなければなりません。「今日の礼拝を通して、神様はどのような恵みをくださるのか?」という期待です。期待を持って捧げる礼拝は、期待を持たずに捧げる礼拝とは明確に異なります。このような心構えを持った方は、特別な事情がない限り礼拝の時間に遅れることがありません。なぜなら、礼拝を通していただける恵みを期待して、時間前に来て祈りをもって備えているからです。
 二つ目は、「積極的な姿勢で礼拝に参加しているか?」ということです。多くの人々は、礼拝を捧げる者としてではなく、礼拝を見る観客として座っているように思います。このような姿勢は神様の御前にふさわしくないですし、また、自分にも有益ではありません。礼拝を通して神様のご臨在を体験するためには、積極的に参加する者にならなければなりません。賛美の時は口だけではなく、作曲者の感動が自分の感動になるように、心を込めて歌詞を噛み締めながら大きい声で賛美しなければなりません。一斉に祈る時は信仰を持って切に祈るべきですし、代表祈祷の時は祈る方の祈りに心を合わせて集中し、心を込めてアーメンと答えなければなりません。献金の時は、事前に献金を備えて、自分の最善を尽くして捧げなければなりません。説教を聴く時には、今、神様が私に語ってくださるみことばであるという信仰を持って、集中して聴かなければなりません。そして最後に、みことばを通していただいた恵みに応え、派遣の賛美と祝祷によって決心の心を表し、礼拝堂から出ていくべきだと思います。
 我が教会の全ての信徒が、捧げる毎週の礼拝を通して神様のご臨在を体験し、また、神様からいただける喜びと、この世に打ち勝つ力が与えられることを期待し、お祈りします。

 趙 南洙師

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