家の教会に参加する時に人々が喜ぶのは、世の中の他の集まりとは異なり、自分の心の奥底まで分かち合うことができ、慰められ、励まされるからです。しかし、1〜2年経つと、牧場の交わりはだんだん難しくなり始めます。すでに互いのことをよく知っているので、「またその話?」という気持ちが湧き始めたり、毎週集うこと、特に家を開いて食事を準備することが負担になり、不満を言い始めたりする人々が現れます。「なぜこんな面倒な交わりを続ける必要があるのか?」と、牧者夫婦や主任牧師にまで不満を持つことがあります。
 このような時、「家の教会は新約教会の回復である」という確信を持つことが大切です。その確信のない教会であれば、不満を持つ牧場のメンバーに配慮しようとして、牧場の集いを隔週にしたり、集まるのではなくzoomで済ませたりするようになります。食事の支度の負担を減らそうとして、代わりに茶菓で済ませたり、忙しくて時間がない時には飲食店やカフェで集まったりもします。ですが、これでメンバーの不満はなくなるのでしょうか? 不満が消えたり、減ったりするどころか、むしろ増大します。このような牧場はだんだん活気を失い、次第に衰え、病んでいきます。
 牧場の交わりが難しくなるのは、決して毎週集まり、いつも一緒に食事をするからではありません。教会の存在目的である「魂の救い」がないからです。楽しく感動のある牧場の交わりのためには、魂が救われなければなりません。では、どのようにすれば魂が救われる牧場になるのでしょうか?それは、VIPたちが感動を受ける牧場になることです。つまり、「VIPが牧場のメンバーに仕えられて、祈りの応答によって感動を受ける」ことが必要です。
 VIPたちが感動するほど仕えるには、今よりもっと余裕がないと無理だと思うかもしれませんが、実はそうではありません。自分がすでに持っているもので仕える時、感謝はしても感動は受けません。自分にないものをもって仕える時、人々は感動を受け、イエス様を信じたいと思うようになるのです。裕福ではない人が、惜しむことなく与え、仕える姿に人は感動を受けます。時間がない人がVIPのために時間を割き、仕える姿に人は感動を受けます。自分より体が弱いのに、自分のために労を惜しまず仕えてくれる時、より深い感動を覚えるのです。
 祈りが応えられたという感動を体験するためには、まず、次の週にすぐ応答が確認できるように、牧場の祈りの課題が具体的である必要があります。祈りが何度も応えられる体験を繰り返すうちに、VIPたちは「これは偶然ではない。神様は本当にいるようだ。」と思うようになり、信仰告白の集いや道コースの学びを勧めると応じてくれるようになります。何よりもまず、毎週牧場のメンバーと一緒にVIPの名前を挙げて祈らなければなりません。神様は祈りのある牧場に、救われるべき魂を送ってくださるからです。

趙 南洙師



 聖書は、特別な人にだけ許された書物ではありません。神学者や牧師でなければ理解できないというような難しい内容ではなく、誰が読んでも理解できる書物として記されています。
ただし、不完全な人間が神の言葉である聖書を完璧に理解することは難しいことです。ですから、神の霊である聖霊の助けをいただくことが大前提となります。聖霊の助けによって聖書が教える意味を理解し、自分の人生に適用していくのです。
 聖書を読む時、必ず聖霊の助けを求めなければならない理由は、聖書は聖霊によって動かされた人々が、神様からいただいたみことばを記録したものだからです(IIペテロ1:21)。パウロによって書かれた書簡も、神様ご自身が聖霊を通してパウロを感動させ、記録させたものです。聖書を読む読者は、パウロの見解や個人の主張として読むのではなく、神のみこころを教えてくださいと願う姿勢で読むべきです。
 聖書を読む時、聖霊の助けをいただくためには何よりまず、先入観を捨てて読まなければなりません。ある人は聖書の一箇所、または単語を引用して自分の信念を主張し、弁明したりもしますが、それは聖書を正しく読む姿勢ではありません。時にはこのような人が信仰的に見えるかもしれませんが、実は神の言葉である聖書を、自分の主張の押し通す道具としているにすぎません。
 ですから聖書を読む時に大切なのは、文脈に沿って読み、理解することです。多くの人が聖書を読み、暗唱し、毎日聖書を黙想していても、文脈に沿って読もうとせず、まず自分が恵まれたり、感動したりする単語やストーリーを探す習慣を持っています。このようにみことばを読むなら、どれほどたくさん聖書を読み、暗唱し、黙想したとしても、「聖書を見る目」は開けないでしょう。むしろ、象の足だけを触って「象は柱のようだ」と言う盲人のような黙想に陥りやすくなります。
 聖書の著者である「神様が何を伝えようとなさったのか?」という、意図を汲む目が開かれるためには、「その書簡の前後の文脈」を全体的に見て、「繰り返される強調の単語」は何か、この聖書を最初に受け取って読んだ「第一読者は誰であって、どのような状況に置かれていたのか」ということを聖霊による感動を通して発見する時、「聖書を見る目」が大きく開かれます。その時から、自分が聖書を読んで行くレベルを超え、聖書のみことばによって「自分が誰であり、どのような状態なのか」が示され、「導いてくださる歩むべき道」までも悟ることができるのです。そのようにして聖書を読む時、黙想する時間がとても楽しみとなります。みことばが蜜のように甘く、黙想が神様との楽しいひとときとなるのです。

趙 南洙師



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 旧約聖書の士師記には、出エジプトしたイスラエルの民が約束の地カナンに定着した後、神を捨て勝手気ままにふるまう内容が記されています。出エジプトの世代が去り、カナンに定着した世代に引き継がれて別の世代に交代したということです。「その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。」(士師記2:10)。士師記の著者は、この変わってしまった新しい「別の世代」の特徴を①神を知らない世代、②神のみわざを覚えていない世代、として表しています。
 なぜそのような問題が起こったのでしょうか? ひと言で言えば、信仰を次世代に引き継ぐことができなかったからです。時代が変わっても、次世代への期待と希望は常に続いていくべきです。このような時こそ、本質に集中して次世代を築き上げねばなりません。次世代を支えることは、今の世代の未来を準備することとも言えます。ですから、すべての信仰者は次世代を支えることに献身するのは大切なことです。神様がどのようなお方であり、その神様が成してくださったことを見て学び、その御業を覚え、感謝する次世代を支えなければならないと思います。
 次世代を支えるという聖書的理念を共有するアメリカの家の教会を実践する韓国系の青少年たち27名(引率者を含む)が、6月24日から1週間、GCAをはじめ私たちの教会を訪れる予定です。最初の4泊5日はGCAに宿泊し、共にキリスト教の古典であるジョン・バンヤンの『天路歴程』を学び、討論します。それぞれ異なる文化で成長してきた若者たちが、イエス・キリストにあって一つであることを体験する、いわば共同体の信仰訓練を実践します。残りの2日間は、私たちの教会の青年たちと共に賛美集会を行い、互いの中に臨在している聖霊の恵みを分かち合います。最後の主日礼拝を共に捧げ、彼らはアメリカに帰国する予定です。
 次世代の将来を祝福し、彼らを支えることに共に協力してくださる家庭を探しています。具体的には、6月28~29日(金~土の2日間)、宿泊場所を提供してくださる家庭を探しています。食事は教会で準備して提供する予定です。彼らは韓国系のアメリカ人として生まれ育った若者で、日本の文化や礼儀を知りません。しかし、クリスチャンのアイデンティティを持つ家の教会に属する若者たちです。幼い天使のような彼らを主の名によってもてなしてくだされば、主が大いに喜ばれると思います。そして来年には、私たちの教会の若者たちがアメリカを訪れ、彼らの家庭でお世話になる予定です。こうして祝福の輪が広がっていくのです。次世代を支えることは、私たちに与えられた祝福です。

趙 南洙師