船を漕艇する航海士が海で暴風に遭った時にすることがあります。それは船首を暴風や風雨の方へ向けることです。暴風を避けようとして他の場所に船首を向けると、船は沈没してしまいます。私たちは神様に仕えていると困難に出くわす時があります。その際にその困難を避けようとしないことが重要です。新しい方法や特別な突破口を探さないことです。困難に直面する時にしなければならないことがあります。それは、方向を神様に向けることです。それが困難と問題を乗り越える道であり、生きる道です。困難を避けようとして視線をそらしたときに助かるだろうと思いますが、実は、逆に崩れてしまいます。
   教会が魂の救いのために主に仕えている時、目に見えるリバイバルや実りが見えない時があります。教会の本質に充実しているのにもかかわらず、成長やリバイバルが起きないときには失望と懐疑を抱くようになります。そして、「どうしてこのようにVIPを重要に考え、仕えなければならないのか」と質問する人もいると思います。教会がリバイバルされない時、魂の救いのための奉仕を続けるべきなのかと疑問を抱く人もいるかもしれません。  そういう時には人間的な方法で教会を建てようとしないことが重要です。妥協して、他教会に出席する人を連れてきたり、別の方法を探したりしないことです。そうすると、それは正しい教会の姿を失わせます。霊的に破産することになります。
 その時は教会の存在目的を再確認することが大切です。そして魂の救いに向けて再び向き合うのです。教会はリバイバルのために建てられたのではなく、すべての人が救われることを望んでおられる神の御心を叶えるために建てられた場所であることを覚えるのです。
 教会に、目に見える可視的な実が見えない時、教会の存在目的と方向を再確認するのが大切です。そして、その方向を再び明確にし、魂の救いに向かって、再び力を出して駆けていくのです。こうすることが最善の方法なのです。
 教会が方向性を正しくつかんでいれば、いかなる環境や困難にも乗り越えることができます。しかし、方向を逃したら全てを失います。教会が建てられた存在目的を失ってしまったのに教会がうまくいくことに何の意味があるでしょうか? 教会が存在する目的を失うときに教会の存在理由をも失うのです。しかし、教会が存在する目的に向けて最善を尽くすのであれば、たとえ教会が崩れたとしてもそれは恥じることではありません。教会が本質と方向を明確にする時、意外に答えはシンプルになります。そして道が見えます。

 趙 南洙師

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 私が再び招待キリスト教会の主任牧師として戻ることになったことを大変恥ずかしく思っています。なぜなら、後任の牧師を立てることができなかった責任が私にもあるからです。どうかお許しください。私は暫定的に招待キリスト教会の主任牧師として就任しますが、皆さんと共にしっかり招待キリスト教会を建て上げていくことができますようにお祈りをお願いします。
 教会と信徒は、神の恵みを土台に築くことによって、神の御前に正しく生きることができます。教会の奉仕を義務的にさせられるなら、疲れたり、限界にぶつかったりします。人を愛し、互いに仕えることは、神の恵みがあるときのみ可能なのです。そのため、いつも奉仕より神の恵みが先行しなければなりません。信仰生活が長くなり、奉仕が身についたとしても、神の恵みなしには良き奉仕者にはなれません。むしろ、信仰告白をしたばかりで奉仕の仕方がよくわからなくても、神の恵みをいただいた者は、愛と喜びを持って仕えることができます。
 互いに仕え、犠牲できるまでのモチベーションは、自分のような罪人を無償で赦してくださった神の恵みのゆえに可能です。神からいただいた愛があまりにも大きいので、自分の時間と富を捧げ、仕えるようになるのです。同じように、長い時間をかけてVIPに仕え、愛することができるのも神の恵みのゆえです。そして、仕えることに疲れ、力がなくなった時にも、神の恵みのゆえに再び起き上がることができます。神からいただいた愛があまりにも大きいので、人に仕え、奉仕することをやめることができないのです。自分のような惨めな罪人を、無条件で愛してくださった神の愛に気づいたとき、自分勝手に無礼な行動の人々までも受け入れ、仕えることができます。神の恵みは私たちを強めます。また、神の恵みは私たちが絶望的で落胆する場合でも起き上がる力を与えてくださいます。神の恵みこそが信仰生活と奉仕の源泉なのです。そのため、神の恵みから離れると信仰生活と奉仕は弱くなり、神の恵みにとどまると信仰生活と奉仕は強くなります。
 もちろん、立派な奉仕のためには多くの事柄を学ぶ必要があります。しかし、神の恵みを知り、その中にとどまることが最も重要です。奉仕の仕方をよく知っていたとしても、神の恵みから離れると、その奉仕は重荷となり、負担となります。そして結局、最後まで続けることができなくなります。私たちは弱くて、信仰生活や奉仕を続けるうちに、神の恵みを忘れがちであり、離れやすい存在です。願わくは、神の恵みにとどまり、共に信仰生活ができることを願います。

 趙 南洙師

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