聖書を見ると、イエスキリストご自身が直接教会を建て上げられると宣言されるのが分かります(マタイ:16:18)。そして、コロサイ1:18で、教会の頭はキリストであると明確に記されています。これを実践的に言えば、教会形成や教会奉仕全ての命令はイエスキリスト(の言葉=聖書)から来ると言うことです。聖書が賛美や説教をするよう教えるなら教会も礼拝にてそのようにします。もし、聖書が神のイメージを禁じているなら(第二の戒め)教会もそれに従います。聖書が兄弟姉妹たちは神の家族のように互いを愛しなさいと言うと、それをもとに教会は参加者同士の相互関係を作って行きます。聖書が教会の最優先事項は魂の救いと弟子作りであるとするなら、教会もそれが中心になるように毎年その働きを振り返り調整します。
 1980年代から世界的に人気を得た教会モデルは、Seeker sensitive求道者中心的モデルです。これが完全に非聖書的なアプローチだとは言えません。でも、これは‘世の人々は教会から何を求めているだろうか?’と言う視点を重視し教会形成をすることであります。例えで言えば、世の人々はあまり聖書箇所が沢山出て来る説教より例話中心の説教を好むことや、パイプオルガンより現代風のバンドが音楽の時間を導くことなど、また服装も割と自由な格好で参加出来るカジュアルな雰囲気を作り出すこと、また現代人は聖書を持ち歩くのを好まないのでスクリーンに聖書箇所を全て映して行こうと言うようなことがあります。さらに言えば、最近の人々は教会で自分が罪人だと聞かされるのは辛いので、出来るだけ神の裁きの箇所は避け、神の愛にフォーカスをおいた箇所ばかりを選んで教えると言うようなこともこのムーブメントから来た一端だと言えます。ビジネスの原点は、“人々は何を求め、どのようにそれを手に入れようとしているだろうか?”と言うものです。教会ももちろんVIP視線から教会を考え直す必要がありますが、最終的に教会形成の方法を決めるのは聖書だと言うことです。今の流行りや人の考えより、教会形成はキリストがそう言われるからそうすると言う根拠が必ず必要であります。
 教会は世の機関とは違い、キリストが頭であり、キリストの指示によって動く共同体です。私たちが聖書を神であるキリストの言葉だと信じているなら、この世が何を求めているのかを誰よりも良く明かしているのは聖書です。世が聖書や教会を世の価値観を持って評価するより、永遠に変わることのない神の言葉である聖書が今の世の中を正しく診断するのです。時々、教会を愛する方々が教会に変化をもたらしたいと貴重な意見を分かち合って下さいます。それがキリストの言葉(聖書)から来るものであれば教会は積極的にそれを考慮し検討すべきです。でも、それが世のビジネスマインドセットから来ているのであれば本当にそれが主の御心なのかを見極め進めるべきだと思います。これからの教会形成も皆さんと共に聖書的に考えて行きたいと思います。

 チョ・ドリュー師

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 先週のコラムでも触れていますが、世界的キリスト教弁証学者だったラビ・ザカリヤスが数十年に渡って数多くの女性と不適切な関係を持った事実は、世界中にいるクリスチャン世界に大きな衝撃を与えました。自分のクリスチャン団体から、ある女性には子供の学費や生活費を与えながら関係を求めた、と言う事実はあまりにも信じがたいものでした。この事実が発表され一番指摘されたのは、“なぜ誰も彼を監視下におけなかったのか?”と言うことです。つまり、彼が出張先で何をしていたのか、団体の資金をどのように使用していたかなど、なぜ彼はそんなに簡単に、皆から自分の二重生活を隠すことが出来たのでしょうか?この答えはシンプルに答えられるものではありませんが、一つ言えるのは普段から人生を分かち合い、自分の弱さと罪の傾向を分かち合う関係(accountability)が不足していたからだと思います。
 ヤコブ5:16では「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」とあります。正直、これは自分が普段性的ファンタジーを持っていることを教会の皆に言いふらすことではありません。罪を言い表すことは、分かち合う対象、適切なタイミングと場を見極めてする必要があります。また、これは自分の罪を言い表しても、続けてその関係性に亀裂が起きることなく、信仰生活が共に送れると言う信頼関係を前提にしていることです(ガラテヤ6:1)。その信頼関係を築き信仰の友情を育むためにも時間が必要とされます。そして、やっと、“私の信仰は揺れている”、“私の妻への愛はもう冷めている”、また“人を赦せず、憎しみはその人を殺したいほどになっている”など本音で自分の罪深さと弱さを吐き出すことが出来ます。教会内の集まりで正直ここまで赤裸々に明かす人はいないでしょうが、それでも自分が今かなり罪の葛藤を覚えていることを表せると思います。信頼する信者たちは一緒に祈り、聖霊の助けを求め、一緒に悔い改める時間を持ち、また福音の力によって罪と戦う決意をして行くのです。
 牧師でさえ、このような関係がないのであればどこかで二重生活が始まり堕落して行く可能性は高いです。牧会上、教会信徒には正直に言えないこともありますので、信頼し祈るパートナーを求め他教会の牧師たちとわかち合うことがあります。なぜ聖書は互いの罪を言い表し祈りなさいと命じていますか?それは、救われているクリスチャンでも一人で罪に打ち勝つことは出来ないからです。だから、一緒に戦うように教会と言う共同体を与えて下さいました。あなたは本当の自分を人々に知られていますか?知らせていますか?逆に面倒だと言いながらそんな関係を避けてはいませんか?これを可能にさせる教会文化は、家の教会、また同姓同士の交わりの中で互いに裁くことをやめ、まずは愛で互いを包むことであります。人は裁かれたり嫌われると思うと本音を語らなくなるからです。理想な間系を作るのは無理かも知れませんが、聖書が映し出す信者同士の関係を目指していく教会になれることを祈ります。

 チョ・ドリュー師

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