クリスチャンが他人を愛することの出来る原動力は神の愛です。また他人を赦せる原動力も神の赦しにあります。そして、私たちが他人をもてなし仕えることの出来るのも、イエスキリストが私たちのために亡くなられ、永遠の相続を下さったので出来ることです。クリスチャンのエンジンを動かす燃料は神の恵みです。工場のベルトコンベアで毎日8時間ひたすら荷物の仕分けをする人に取ってそれは退屈な仕事です。でも、この同じ人が仕分けされた荷物を宛先まで届け、それを受け取った人の喜ぶ表情を見たとしましょう。その後、この人はベルトコンベア業務へのやりがいを増すことになると思います。同じ様に、私たちの行動と奉仕が主を喜ばせる働きであることを覚える時、私たちの奉仕もいきいきして来ます。つまり、もっとやりがいのある奉仕をするために、私たちはいつも主の臨在の中(礼拝やデボーション)に入る必要があると言うことです。なぜなら、そこで生きている主に満たされる経験をし、また霊的に充電され、この世に出て行くことが出来るからです。
 時々、新しく教会に来られる方で、最初から奉仕のやる気満々の方がいます。でも、不思議にもそう言う人に限って礼拝中に良く居眠りをする光景を見ます。そういう信徒たちは半年もしない内に奉仕に対するやる気が半減しているのを見ることがあるのです。その人に何が欠けていたのかは明らかです。礼拝やデボーションによって満たされることがなかったと言えます。牧師であっても、神と個人的な時間を過ごすことがなければ、心に触れる説教準備をすることは出来ません。常に主を賛美し、祈りを通して主に近づくことによって、霊性が保たれ他人に仕える力を得ることになります。本日の説教でも出て来る話ですが、正直主の臨在に満たされることのないまま奉仕に走る人はマルタのように不平不満の多い奉仕者になるでしょう。礼拝なしには喜びの奉仕は続かないからです。
 奉仕者は、常に人間の意志や力に頼って奉仕をしないことが重要です。なぜなら奉仕者の原動力は神様ご自身から来るからです。ですから、奉仕者はいつも主が私のためにして下さったことを黙想し賛美します。心の葛藤があっても主の温かい臨在によって希望を見出し回復されていくのです。それが長年奉仕を続ける秘訣になります。今、奉仕に疲れを覚えている人がいるなら、まずは主との交わりである礼拝の回復を目指しましょう。

 チョ・ドリュー師

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 昨日の日々のみ言葉の箇所にありましたが、イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」と言われました(ルカ9:58)。またイエスはマルコ10:25で「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」と教えられました。これらを聞いた多くのクリスチャンは“そうだ、イエスキリストが貧しく暮らしたように全てのクリスチャンは貧しく暮らすべきだ”と主張します。これを貧困の福音Poverty Gospelと言います。この観点が強いクリスチャンはリッチな暮らしをするクリスチャンたちを極端に妬み嫌います。
  一方で、創世記39:2で「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり(prospered)」と書いてあります。ここで成功するとは、ビジネスに繁盛することを意味しています。マタイ25章のタラントの例え話は与えられた財産を増やすことを教えます。3ヨハネ1:2では「あなたがすべての点で幸いを得(ギリシャ語でEudowは繁盛することを意味する)、また健康であるように祈ります」と記されています。聖書が語る信者が通る苦難や迫害は無視し、これらの部分だけを切り取って主張するのを繁栄の神学Prosperity Gospelと呼びます。少し間違えれば神様をATMマシーン化させてしまう神学です。この神学に偏った多くの信者が礼拝し祈る強い動機は、健康と富であります。
  聖書をこのように一方に片り過ぎて受け入れると、その信仰もまた偏ったものになってしまいます。ミニストリーをされていたイエスキリストは、定住する家はありませんでしたが、多くの人たちによってその働きは金銭的に支えられていました(ルカ8:3)。イエスに与えられたロバも、最後の晩餐をした場所も、また死後に入られた墓も全て人々の尊い献金によって支えられていました。クリスチャンが全員貧困で困っていたらあり得なかった話です。神様がクリスチャンを金銭的に成功させることがあります。でも、重要なのは、金持ちと贅沢に暮らすこととは別物だということです。金持ちであってもささやかに暮らし、主の御国のために貢献することが出来ます。逆に、貧乏暮らしをしながらお金を偶像にして生きることも出来ます。重要な点は“あなたの神(あなたが拝む神)は何なのか?”であります。もし、富があなたの頼り所で信仰が薄くなるなら、富はその人にとって祝福ではなく毒です。
  マタイ19:29でイエスは仰いました、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」私たちにとって貧困の神学なのか、繁栄の神学なのか以上に重要な質問があります。それは、どのようにして私の人生を神の栄光のために捧げられるかです。お金より時間があるものは時間を捧げ、時間よりお金のある者は主の働き人を経済的に支えることが出来ます。ただ、貧困の神学と繁栄の神学によってつまずくことは避けましょう。全てを正しく裁かれる方は主です。その方を信頼し、与えられている今を忠実に生きて行きましょう。

 チョ・ドリュー師

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