2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『週報献金者名欄について』 牧師コーナー(58)
6月7日から参加人数を定めて礼拝再開を検討中ですが、それに合わせて週報のデザインも変わる予定です。今までとは違い、1部と2部、また品川である午後の礼拝の式次第も入る予定です。教会の全信徒が互いをより良く認識出来る週報になるのではないかと思っています。また、一つ変わる点においては献金者名の欄が無くなることです。
以前から欧米の教会でも献金者の名前を週報に入れる習慣がありました。教会が大きくなれば、もちろん全ての献金者名を記入出来なくなるため、自然にこの欄は無くなって行きました。そして現代に入り、これは他人を意識して献金を捧げる習慣を促すため、ほとんどの教会は小さい所でも献金者名の記入欄を削除しています。招待教会は今まで信徒たちの尊い献金を頂いた証明書の代わりに週報に名前を記入していましたが、今回これを見直す形で新しい週報には入れないことを決めました。
献金はまず私たちを造り、私たちを養って下さる主にささげるものです。そして、旧約聖書では神殿の働きを支えるために、また新約聖書では使徒や牧会者たちの福音の働きを支えるために献金がされました。聖書の中には教会献金以外にも貧しい人々を助ける働き(現代ではチャリティーのような)に献金が使われていました。しかし、マタイ6:2で、イエスキリストは献金する姿勢をこのように教えられます。「施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」貧しい人々に施してラッパを吹く とは、自分の献金を他人にアピールする行為です。
週報に献金者名が記入されることは良い目的で用いられることももちろんあるでしょう。“皆が教会の働きを一緒に支えている。”また、“___さんは献金を通して良い模範を示している”など、教会の一致を表すこともあります。でも、それが誰かの霊的プライドになり、霊的プレッシャーに繋がるなら残念な結果であります。使徒パウロは2コリント9:7で献金について、こう教えています。「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」
献金は神に対する私たちの信仰の現れです。私たちを永遠の滅びから永遠のいのちへ救って下さったこと。また、日曜の糧以上に私たちを祝福して下さっていることを覚え、“これら全てはあなたの御手から来ました。それと比べるとわずかですが、この献金をあなたの御国のために用いて下さい。”と言う姿勢でささげるものであります。今後、自分がささげた献金が教会にちゃんと受け取られているのか確認が必要な方々は、是非事務所および会計役員にお問い合わせ下さい。献金封筒に名前を記入して捧げている方々の献金記録は教会で保管していますので、年間幾ら捧げられたのかを確認することが可能です。私たちが覚えるべき重要な点は私たちの献金を削除することなく記録されるのは神様だと言うことです。皆さんは、他人からプレゼントされたものや献金を頂いた恵みをすぐには忘れないと思います。いつか恩返しをしようと思います。主は決して私たちのささげものを忘れられる方ではありません。私たちの献金生活も人の目を気にしてするのではなく、主を見上げてささげる習慣にしていきましょう。
チョ・ドリュー師
以前から欧米の教会でも献金者の名前を週報に入れる習慣がありました。教会が大きくなれば、もちろん全ての献金者名を記入出来なくなるため、自然にこの欄は無くなって行きました。そして現代に入り、これは他人を意識して献金を捧げる習慣を促すため、ほとんどの教会は小さい所でも献金者名の記入欄を削除しています。招待教会は今まで信徒たちの尊い献金を頂いた証明書の代わりに週報に名前を記入していましたが、今回これを見直す形で新しい週報には入れないことを決めました。
献金はまず私たちを造り、私たちを養って下さる主にささげるものです。そして、旧約聖書では神殿の働きを支えるために、また新約聖書では使徒や牧会者たちの福音の働きを支えるために献金がされました。聖書の中には教会献金以外にも貧しい人々を助ける働き(現代ではチャリティーのような)に献金が使われていました。しかし、マタイ6:2で、イエスキリストは献金する姿勢をこのように教えられます。「施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」貧しい人々に施してラッパを吹く とは、自分の献金を他人にアピールする行為です。
週報に献金者名が記入されることは良い目的で用いられることももちろんあるでしょう。“皆が教会の働きを一緒に支えている。”また、“___さんは献金を通して良い模範を示している”など、教会の一致を表すこともあります。でも、それが誰かの霊的プライドになり、霊的プレッシャーに繋がるなら残念な結果であります。使徒パウロは2コリント9:7で献金について、こう教えています。「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」
献金は神に対する私たちの信仰の現れです。私たちを永遠の滅びから永遠のいのちへ救って下さったこと。また、日曜の糧以上に私たちを祝福して下さっていることを覚え、“これら全てはあなたの御手から来ました。それと比べるとわずかですが、この献金をあなたの御国のために用いて下さい。”と言う姿勢でささげるものであります。今後、自分がささげた献金が教会にちゃんと受け取られているのか確認が必要な方々は、是非事務所および会計役員にお問い合わせ下さい。献金封筒に名前を記入して捧げている方々の献金記録は教会で保管していますので、年間幾ら捧げられたのかを確認することが可能です。私たちが覚えるべき重要な点は私たちの献金を削除することなく記録されるのは神様だと言うことです。皆さんは、他人からプレゼントされたものや献金を頂いた恵みをすぐには忘れないと思います。いつか恩返しをしようと思います。主は決して私たちのささげものを忘れられる方ではありません。私たちの献金生活も人の目を気にしてするのではなく、主を見上げてささげる習慣にしていきましょう。
チョ・ドリュー師