2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『幼児洗礼の聖書的根拠』 牧師コーナー(700)
2010年5月、幼児洗礼を行った週に牧師コラムでお伝えした内容ですが、来週の幼児洗礼に向けて皆さまにもう一度お伝えさせていただきたいと存じ、再度掲載させていただきます。
聖書が示している信仰は、神様による契約の関係です。神様は私たちの父であり、私たちはその子どもであるという関係です。神様を知らなかったアブラハムでしたが、この契約関係に従って自分の体に契約のしるしとして割礼を受けました。そしてこの割礼の恵みは、幼い子どもイサクに、そして孫ヤコブへと受け継がれました。長い間、この割礼の伝統は旧約聖書による教えでしたが、その契約の意味を破ってしまった人間への新たな契約として、主イエス・キリストの十字架のあがないによる洗礼が施されました。つまり新たな契約関係のしるしが、割礼から洗礼に変わったということです。
ところが主イエスの弟子たちのように、ほとんどの人々は信仰のことは大人だけのことと思っていたのでしょう。少なくとも子どもの出る幕ではなかったのです。しかし、主イエスは子どもを迎えて祝福されました。人々が子供たちを連れてイエス様のもとに来た時、弟子たちはこの人々を叱りましたが、イエス様のお考えは弟子たちとは違いました。イエス様は子どもを抱き上げて、手を置いて祝福してくださったのです。幼児洗礼は、そのように主の手を子どもに置いて、祝福していただく行為なのです(マルコの福音書10:14-16)。
しかし厳密に言えば、この祝福が必ずしも洗礼を意味するとは言えないかもしれません。そこで、幼児洗礼の聖書的根拠として、使徒の働き16章15節の、「彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けた」という記事を挙げるのです。この「家族」のなかに幼児もいたであろうと考えるからです。家長、あるいはそれに準ずる者が信仰を与えられると、その信仰の告白に基づいて、家族全体が洗礼を受けたと考えられるからです。ひとつの家がひとつの信仰に生きるのは当然である…という考えが、これと結びついたともいえます。家族の絆を神の祝福抜きには考えることができなかったのです。そこで教会の歴史の中で、だんだんと幼児洗礼が定着しました。
いわゆるキリスト教公認以後、特にキリスト教社会が形成されるとき、幼児洗礼が重要な働きをしているとさえ見ることができるのです。また、信仰継承のためにも幼児洗礼は大切です。
聖書が示している信仰は、神様による契約の関係です。神様は私たちの父であり、私たちはその子どもであるという関係です。神様を知らなかったアブラハムでしたが、この契約関係に従って自分の体に契約のしるしとして割礼を受けました。そしてこの割礼の恵みは、幼い子どもイサクに、そして孫ヤコブへと受け継がれました。長い間、この割礼の伝統は旧約聖書による教えでしたが、その契約の意味を破ってしまった人間への新たな契約として、主イエス・キリストの十字架のあがないによる洗礼が施されました。つまり新たな契約関係のしるしが、割礼から洗礼に変わったということです。
ところが主イエスの弟子たちのように、ほとんどの人々は信仰のことは大人だけのことと思っていたのでしょう。少なくとも子どもの出る幕ではなかったのです。しかし、主イエスは子どもを迎えて祝福されました。人々が子供たちを連れてイエス様のもとに来た時、弟子たちはこの人々を叱りましたが、イエス様のお考えは弟子たちとは違いました。イエス様は子どもを抱き上げて、手を置いて祝福してくださったのです。幼児洗礼は、そのように主の手を子どもに置いて、祝福していただく行為なのです(マルコの福音書10:14-16)。
しかし厳密に言えば、この祝福が必ずしも洗礼を意味するとは言えないかもしれません。そこで、幼児洗礼の聖書的根拠として、使徒の働き16章15節の、「彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けた」という記事を挙げるのです。この「家族」のなかに幼児もいたであろうと考えるからです。家長、あるいはそれに準ずる者が信仰を与えられると、その信仰の告白に基づいて、家族全体が洗礼を受けたと考えられるからです。ひとつの家がひとつの信仰に生きるのは当然である…という考えが、これと結びついたともいえます。家族の絆を神の祝福抜きには考えることができなかったのです。そこで教会の歴史の中で、だんだんと幼児洗礼が定着しました。
いわゆるキリスト教公認以後、特にキリスト教社会が形成されるとき、幼児洗礼が重要な働きをしているとさえ見ることができるのです。また、信仰継承のためにも幼児洗礼は大切です。
趙 南洙師