2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『分岐点での選択』 牧師コーナー(724)
もしかすると人生は、分岐点でひとつの道だけを選び続ける葛藤の連続かもしれません。どのように決断すれば神のみこころにかなうのかと、様々な物事や人間関係について悩む人は私だけではないと思います。例えば、牧者の方がクリスチャンになったばかりの方を助けようとする時、「キリストの弟子として立てるためにはどのようにアドバイスするのが適切か」などを判断するのは難しいと思います。ただひたすら仕え続けると、「霊的に子どもの信仰のままになってしまうでは」と思われますし、とはいえ道コースや教会の奉仕を強要してしまうと、「プレッシャーを感じて、牧場の交わりすら避けて離れてしまうかも」という心配があるからです。私の場合、このような時には次のように祈り、決断しています。
まずは、どちらの選択が聖書で語られる神のみこころにより近いかを考えます。聖書で語られる「神のみこころ」とは次の三つです。一つ目は「魂を救うこと」(ヨハネ6:40)、二つ目は「イエスの似姿に変えられる聖さ」(一テサロニケ4:3)、そして三つ目は「いつも喜び、祈り、感謝すること」(一テサロニケ5:16-18)です。そのため私は、自分が二つの選択の道に立っている時、聖書で語られるこの三つの神のみこころに基づいて考え、決断をします。このようにすることで、神様は複雑な世界を生きる私の人生をよりシンプルで、明確にしてくださり、神のみこころの成就も経験させてくださいました。
次に、どちらの道を選択しても神様が喜ばれるだろうと思う分岐点に立っている時、神の前で恥じることがないような状況の場合は、少し苦労する道や損するような道を選んだ方が良いと思います。
私は若い頃に大きな教会の副牧師としての就任する機会と、ホームレス伝道の働きの責任を担う二つの分岐点で悩んだことがありました。その時、私のメンターから、「もっと苦労する道を選ぶことが主の前でより純粋に生きることにつながる」という助言をいただきました。それで私はホームレス伝道の道を選びました。またソウルで教会を開拓し、安定した牧会をしていたある日、日本宣教の使命を強く感じました。どの道を選んでも福音伝道者としての生き方に変わりはありませんでしたが、私はすべてを手放す日本宣教の道を選びました。振り返ってみれば良い選択だったと思います。
まずは、どちらの選択が聖書で語られる神のみこころにより近いかを考えます。聖書で語られる「神のみこころ」とは次の三つです。一つ目は「魂を救うこと」(ヨハネ6:40)、二つ目は「イエスの似姿に変えられる聖さ」(一テサロニケ4:3)、そして三つ目は「いつも喜び、祈り、感謝すること」(一テサロニケ5:16-18)です。そのため私は、自分が二つの選択の道に立っている時、聖書で語られるこの三つの神のみこころに基づいて考え、決断をします。このようにすることで、神様は複雑な世界を生きる私の人生をよりシンプルで、明確にしてくださり、神のみこころの成就も経験させてくださいました。
次に、どちらの道を選択しても神様が喜ばれるだろうと思う分岐点に立っている時、神の前で恥じることがないような状況の場合は、少し苦労する道や損するような道を選んだ方が良いと思います。
私は若い頃に大きな教会の副牧師としての就任する機会と、ホームレス伝道の働きの責任を担う二つの分岐点で悩んだことがありました。その時、私のメンターから、「もっと苦労する道を選ぶことが主の前でより純粋に生きることにつながる」という助言をいただきました。それで私はホームレス伝道の道を選びました。またソウルで教会を開拓し、安定した牧会をしていたある日、日本宣教の使命を強く感じました。どの道を選んでも福音伝道者としての生き方に変わりはありませんでしたが、私はすべてを手放す日本宣教の道を選びました。振り返ってみれば良い選択だったと思います。
趙 南洙師