2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『訪ねて来られる神様』 牧師コーナー(726)
神様は人のところに訪ねて来られるお方です。神様を体験した人々の話を聞くと、ほとんどの人は自ら神を探し求めたのではなく、神が自分のところに来て、呼びかけてくださったと言います。イザヤ65章2節を見ると、悪しき者に向かっていつも御手を差し伸べつづける神の切なる思いが語られています。
神様が私たちを探し求めるのは、神の愛のゆえだと言えるでしょう。多くの人は自らが救いを成し遂げていくものだと考えています。そのため人が作り出したすべての宗教は、いつも自らで何かを悟ったり、修行をしたりすることで救いの境地に達することができると信じます。しかし聖書は、私たち自らが救われたいと願う意志よりも、私たちを救いたいと願う神の情熱の方がはるかに大きいと語っています。
神様が私たちを探し求めるもう一つの理由は、私たち自らが神様を探し求めないからです(ローマ3:11)。人間は本質的に高慢で、自らの力で生きられる、神など必要ないと主張し、神様を求めようともせず生きています。人は初めから神様を捨て、神なしに生きられると思っているのですが、聖書はこれが罪だと語ります。罪を犯した人間は、自分では神様が必要だとわからずに生きようとするので、神様が私たちのところを訪ねてくださり、呼びかけてくださるのです。
神様が私たちを探し、呼びかける方法の一つは、私たちに渇いた心を持たせることだと思います。ある日突然、寂しさを感じたり、いつも楽しんでいたものが虚しくなったり、今までの生き方に疑いが芽生えるならば、それは神様が私たちに呼びかけておられるからこそ感じる思いなのかもしれません。何かに対する責任感で、常に心配と緊張の中に生きるある日、突然すべてを手放して休みたいと思う気持ちになるならば、それは神様が呼びかけておられるしるしかもしれません。また、いつも自信満々であったのに、ある日突然自分にできることが何もないと感じ、無力さを感じるならば、それもまた神様の呼びかけだと思います。
神様が私たちを探し、呼びかけておられることを感じる時、私たちがするべきことは、神の御声に応えることです。自分が疲れ果てていて、自分の力ではできることが何もないことを認め、すべてのことを神様だけに依り頼むのです。そこから神様とのまことの出逢い(体験)が始まると信じます。
神様が私たちを探し求めるのは、神の愛のゆえだと言えるでしょう。多くの人は自らが救いを成し遂げていくものだと考えています。そのため人が作り出したすべての宗教は、いつも自らで何かを悟ったり、修行をしたりすることで救いの境地に達することができると信じます。しかし聖書は、私たち自らが救われたいと願う意志よりも、私たちを救いたいと願う神の情熱の方がはるかに大きいと語っています。
神様が私たちを探し求めるもう一つの理由は、私たち自らが神様を探し求めないからです(ローマ3:11)。人間は本質的に高慢で、自らの力で生きられる、神など必要ないと主張し、神様を求めようともせず生きています。人は初めから神様を捨て、神なしに生きられると思っているのですが、聖書はこれが罪だと語ります。罪を犯した人間は、自分では神様が必要だとわからずに生きようとするので、神様が私たちのところを訪ねてくださり、呼びかけてくださるのです。
神様が私たちを探し、呼びかける方法の一つは、私たちに渇いた心を持たせることだと思います。ある日突然、寂しさを感じたり、いつも楽しんでいたものが虚しくなったり、今までの生き方に疑いが芽生えるならば、それは神様が私たちに呼びかけておられるからこそ感じる思いなのかもしれません。何かに対する責任感で、常に心配と緊張の中に生きるある日、突然すべてを手放して休みたいと思う気持ちになるならば、それは神様が呼びかけておられるしるしかもしれません。また、いつも自信満々であったのに、ある日突然自分にできることが何もないと感じ、無力さを感じるならば、それもまた神様の呼びかけだと思います。
神様が私たちを探し、呼びかけておられることを感じる時、私たちがするべきことは、神の御声に応えることです。自分が疲れ果てていて、自分の力ではできることが何もないことを認め、すべてのことを神様だけに依り頼むのです。そこから神様とのまことの出逢い(体験)が始まると信じます。
趙 南洙師