2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『弟子として生きること』 牧師コーナー(734)
私たちがよく知っているマタイの福音書28章19-20節で語られている弟子とは、「御父と御子と御霊の名によってバプテスマ(洗礼)を受けた人」を指します。ご存知のようにバプテスマとは、「自分の罪を告白し、イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、新たに生まれ変わること」です。つまり、その人の存在自体が変えられることを「救い」と言います。
しかし、イエス様がおっしゃる弟子になることは、単に救いの確信に留まることを意味しているのではありません。救いの確信とは、ある意味、一種の基本的な確認であると言えます。弟子になることは、「時間が経つほどに、ますます師の教えに従い、証しする継承者」であり、同時に「真理の証し者として生きること」を意味します。そのためイエス様は「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」と命じられました。弟子とは、イエス様の御教えを学び、守り、教えなければなりません。
また同時に、弟子になることには重要な意味があります。それは、「主イエス・キリストによって救われた自分は、人生をどう生きていくべきか」という使命についての認識を明確にすることです。ですから、弟子になることは、「与えられた使命が自分の人生の目的となって生きること」を意味します。従って、イエス様の弟子として生きますと告白する私たちは、使徒パウロが告白したように、キリストから与えられた召しを走り尽くすまで、自分のいのちは少しも惜しいとは思わない(使徒20:24)「召命者としての歩み」を生きると決心するのです。
誤解してはいけないのは、弟子訓練の一環として行われている道コースを修了しただけでは、弟子として生きているという称号が与えられるわけではないことです。イエス様に従い、その御教えを自ら守り、そして隣人にも模範を示しつつ、教えて共に守ろうとする生活のすべてが、弟子としての歩みであるということです。
とはいえ、弟子として生きることが「牧師や宣教師になること」を意味しているわけではありません。救われたすべてのクリスチャンの究極の歩みは、どのような職業であろうが、与えられた場所でキリスト者として生きることを意味します。救いの本来の意味である「いのち」と「使命」は、貨幣の表裏のようなものです。救いの確信を持って生きる真のクリスチャンであるならば、当然、与えられた使命の道を歩む弟子としての人生を生きることになるでしょう。
しかし、イエス様がおっしゃる弟子になることは、単に救いの確信に留まることを意味しているのではありません。救いの確信とは、ある意味、一種の基本的な確認であると言えます。弟子になることは、「時間が経つほどに、ますます師の教えに従い、証しする継承者」であり、同時に「真理の証し者として生きること」を意味します。そのためイエス様は「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」と命じられました。弟子とは、イエス様の御教えを学び、守り、教えなければなりません。
また同時に、弟子になることには重要な意味があります。それは、「主イエス・キリストによって救われた自分は、人生をどう生きていくべきか」という使命についての認識を明確にすることです。ですから、弟子になることは、「与えられた使命が自分の人生の目的となって生きること」を意味します。従って、イエス様の弟子として生きますと告白する私たちは、使徒パウロが告白したように、キリストから与えられた召しを走り尽くすまで、自分のいのちは少しも惜しいとは思わない(使徒20:24)「召命者としての歩み」を生きると決心するのです。
誤解してはいけないのは、弟子訓練の一環として行われている道コースを修了しただけでは、弟子として生きているという称号が与えられるわけではないことです。イエス様に従い、その御教えを自ら守り、そして隣人にも模範を示しつつ、教えて共に守ろうとする生活のすべてが、弟子としての歩みであるということです。
とはいえ、弟子として生きることが「牧師や宣教師になること」を意味しているわけではありません。救われたすべてのクリスチャンの究極の歩みは、どのような職業であろうが、与えられた場所でキリスト者として生きることを意味します。救いの本来の意味である「いのち」と「使命」は、貨幣の表裏のようなものです。救いの確信を持って生きる真のクリスチャンであるならば、当然、与えられた使命の道を歩む弟子としての人生を生きることになるでしょう。
趙 南洙師