2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
0
『黙想のための正しい理解』 牧師コーナー(736)
長年、私は毎日「黙想」の時間を持ち続けています。そして信仰生活をおくる信徒の方々にも黙想を勧めてきました。ですが時々、自分を無にして静まる祈りの時が黙想だと誤解する方がいます。キリスト教の黙想は、ヨガや東洋の瞑想、または超自然的な瞑想などとは違います。これらと混同しないようにしましょう。キリスト教の黙想は、心を無にする修行ではありません。むしろ私たちのすべての部分、つまり心、感情、想像力、創造性、そして何よりも意志を活発にするものなのです。
深い霊性の持ち主であるアントニー・ブルーム(Anthony Bloom)は、「黙想とは、神のみ守りの中で行われる、一種の率直な思考」と述べています。ですから、聖書を学問的に研究することと黙想は異なるものなのです。黙想した内容を実践に移した詩篇の記者の記録を見れば、それが明確にわかります。
「床の上で あなたを思い起こすとき 夜もすがら あなたのことを思い巡らすときに。」(詩篇63:6)の中の「思い巡らす(黙想)」という単語には、「つぶやき」または「継続的なささやき」という意味が含まれています。つまり「同じ言葉を繰り返して言う」という意味です。また、詩篇119篇での詩篇の記者は、黙想を言及する際に、それぞれ異なる言葉を用いて「私は あなたの戒めに思いを潜め あなたの道に私の目を留めます。」(詩篇119:15)、「たとえ君主たちが座して 私に敵対して語り合っても このしもべは あなたのおきてに思いを潜めます。」(詩篇119:23)、「私は 愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ あなたのおきてに思いを潜めます。」(詩篇119:48)と語っています。
このように、詩篇で使われているこれらの句や単語の中には、「楽しむ」、「考える」、「反芻する」、「熟考する」という意味が含まれています。これらからわかるように、キリスト教の黙想は「無にする」のではなく、「満たす」のです。これは神の御声に耳を傾けることを意味します。このような傾聴する姿勢、つまり反芻したりや思考したりする目的は、さまざまな事象に示される神のみことばの光のうちに、私たち自身を見ることなのです。これは、イエス様が旧約聖書のみことばによって、隠されたサタンの誘惑を見破ったことと同じです。
黙想を通して神のみことばが、傷つきやすい私たちの「心」だけでなく、「感情」、そして選択をし、決断をする私たちの「意志」にも染み込むようにしなければなりません。私たちは生きているみことばご自身であるイエス・キリストに出会うために黙想します。黙想を通して私たちの存在すべて、すなわち私たちの思考と感情と熱望が神様を見上げ、畏れ、そして栄光を帰さなければならないのです。今回の受難週を通して、私たち全員が神の意志(みこころ)と対話できる深い黙想の時となりますように祈ります。
深い霊性の持ち主であるアントニー・ブルーム(Anthony Bloom)は、「黙想とは、神のみ守りの中で行われる、一種の率直な思考」と述べています。ですから、聖書を学問的に研究することと黙想は異なるものなのです。黙想した内容を実践に移した詩篇の記者の記録を見れば、それが明確にわかります。
「床の上で あなたを思い起こすとき 夜もすがら あなたのことを思い巡らすときに。」(詩篇63:6)の中の「思い巡らす(黙想)」という単語には、「つぶやき」または「継続的なささやき」という意味が含まれています。つまり「同じ言葉を繰り返して言う」という意味です。また、詩篇119篇での詩篇の記者は、黙想を言及する際に、それぞれ異なる言葉を用いて「私は あなたの戒めに思いを潜め あなたの道に私の目を留めます。」(詩篇119:15)、「たとえ君主たちが座して 私に敵対して語り合っても このしもべは あなたのおきてに思いを潜めます。」(詩篇119:23)、「私は 愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ あなたのおきてに思いを潜めます。」(詩篇119:48)と語っています。
このように、詩篇で使われているこれらの句や単語の中には、「楽しむ」、「考える」、「反芻する」、「熟考する」という意味が含まれています。これらからわかるように、キリスト教の黙想は「無にする」のではなく、「満たす」のです。これは神の御声に耳を傾けることを意味します。このような傾聴する姿勢、つまり反芻したりや思考したりする目的は、さまざまな事象に示される神のみことばの光のうちに、私たち自身を見ることなのです。これは、イエス様が旧約聖書のみことばによって、隠されたサタンの誘惑を見破ったことと同じです。
黙想を通して神のみことばが、傷つきやすい私たちの「心」だけでなく、「感情」、そして選択をし、決断をする私たちの「意志」にも染み込むようにしなければなりません。私たちは生きているみことばご自身であるイエス・キリストに出会うために黙想します。黙想を通して私たちの存在すべて、すなわち私たちの思考と感情と熱望が神様を見上げ、畏れ、そして栄光を帰さなければならないのです。今回の受難週を通して、私たち全員が神の意志(みこころ)と対話できる深い黙想の時となりますように祈ります。
趙 南洙師