2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『魂が救われるためには』 牧師コーナー(747)
今週は使徒の働き17章を黙想しながら、パウロとシラスがテサロニケで福音を伝えた際に、みことばを持って人々と議論したことに注目しました。特にパウロは、キリストが苦しみを受け、死者の中からよみがえったことを解釈し、証しつつ、イエス様こそ、キリストであることを宣べ伝えました。結果、パウロの伝道に心動かされた人々が多くおり、彼らはキリスト者となりました。すなわち、十字架の福音を先に信じたパウロの後をついていくキリストの弟子として生きる、証人となったのです。
我が教会では、聖書が語る家の教会こそ、イエス様の体としてのまことの教会の姿の回復だと信じ、信徒たちが未信者を招いて家々に集まる牧場の集いを大切にしています。しかし、食卓に招いて、少し親切なことをしたからといって、すぐに未信者の方がイエス様を信じることはないと思います。もちろん、何もしていないのに親切に接してくださり、自分のために祈ってくれる牧場のメンバーたちを見て「素晴らしい方々だ」「本当にありがたい」と思うことはあるかもしれません。家の教会は、このような隣人との健全な関係を築くことを大切にしているので、このような奉仕には感謝したいと思います。
ですが、イエス様を救い主として受け入れることは、強要、あるいは親切な奉仕を通して得られるものではありません。私たちのために十字架にかかって死なれ、そして死者の中からよみがえられたイエス様の救いのみわざを歴史的な事実として心に受け入れる時、可能になります。その時、人々はこのニュース(歴史)を自分に向けた福音として受け入れ、信じるようになるのです。
福音の受容は一般的な知識の伝達とは異なり、贖いに対する論理的な証明が必要です。それだけでなく、伝える過程においても、神の霊である聖霊様が、伝える人と聞く人に感動を与えてくださるから可能になることだと信じます。
単に聖書一箇所を引用することで福音をすべて伝えたと考えるのは、あまりにも軽率な行動のような気がします。相手が福音を納得して受け入れられるように、聖書を解き明かし、自分はどのようにして、なにゆえに救われたかをも証しする必要があるでしょう。魂の救いが単なるスローガンで終わることなく、みなさまの人生の中で実現することを願い、祈ります。
我が教会では、聖書が語る家の教会こそ、イエス様の体としてのまことの教会の姿の回復だと信じ、信徒たちが未信者を招いて家々に集まる牧場の集いを大切にしています。しかし、食卓に招いて、少し親切なことをしたからといって、すぐに未信者の方がイエス様を信じることはないと思います。もちろん、何もしていないのに親切に接してくださり、自分のために祈ってくれる牧場のメンバーたちを見て「素晴らしい方々だ」「本当にありがたい」と思うことはあるかもしれません。家の教会は、このような隣人との健全な関係を築くことを大切にしているので、このような奉仕には感謝したいと思います。
ですが、イエス様を救い主として受け入れることは、強要、あるいは親切な奉仕を通して得られるものではありません。私たちのために十字架にかかって死なれ、そして死者の中からよみがえられたイエス様の救いのみわざを歴史的な事実として心に受け入れる時、可能になります。その時、人々はこのニュース(歴史)を自分に向けた福音として受け入れ、信じるようになるのです。
福音の受容は一般的な知識の伝達とは異なり、贖いに対する論理的な証明が必要です。それだけでなく、伝える過程においても、神の霊である聖霊様が、伝える人と聞く人に感動を与えてくださるから可能になることだと信じます。
単に聖書一箇所を引用することで福音をすべて伝えたと考えるのは、あまりにも軽率な行動のような気がします。相手が福音を納得して受け入れられるように、聖書を解き明かし、自分はどのようにして、なにゆえに救われたかをも証しする必要があるでしょう。魂の救いが単なるスローガンで終わることなく、みなさまの人生の中で実現することを願い、祈ります。
趙 南洙師