2025年 年間標語 年間標語「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1章1~9節)
0
『牧者の気持ちがわかりますか?』 牧師コーナー(804)
私たちの教会で新約教会の回復を追求する家の教会が成功的に定着するために、何よりも重要なのは牧者たちによる仕える奉仕だと思います。牧者がよく仕えるからこそ、牧場のメンバーが集まり、牧者の仕える姿を見て感動し、未信者も主イエス様を受け入れるようになります。
しかし、牧者の奉仕を当然のことと考えている人たちもいるようです。牧場メンバーが自分はただ仕えられることだけを望み、指一本も動かさない場合もあります。よく仕えられても、まだ足りないと不満を言うこともあります。新来者ではなく、長く教会生活をしてきた人たちがそうであるなら、本当に残念です。
家の教会は愛の共同体です。牧者が与え続け、牧場メンバーは受け取るだけなら、それは愛の共同体ではなく、慈善団体になります。牧者は任命される際、一方的に仕えることを決心し、奉仕の働きを担います。しかし牧場メンバーが仕えられることを当然と思うなら、それは間違った考え方です。
家の教会の長所の一つは、信徒一人ひとりが、頭であるキリストの体の一部(肢体)になるという点です。牧者が仕え、牧場メンバーが受け取るばかりなら、その人は機能していない肢体になってしまいます。それでは新約的な教会を築こうとする家の教会の趣旨から外れてしまいます。
伝道についても同じです。牧者だけでは伝道は成り立ちません。未信者のニーズは多様なので、牧場全体が協力しなければなりません。伝道がうまくいかない理由がここにあります。伝道を牧師の仕事だと考え、牧師に任せてしまうのです。伝道は、牧師、牧者、牧場のメンバー全員が魂の救いへの情熱に燃えているときにこそ、可能になります。わが教会に伝道がよく行われていたときは、まさにそのような雰囲気がありました。
牧者の中には、特別によく仕える人たちもいます。奉仕の賜物がある人たちです。そういう人たちの話が広まると、自分の牧者にも同じようなことを期待してしまうようです。しかし牧者たちの賜物はそれぞれ異なります。自分の牧者が他の牧者と同じように仕えてくれることを期待するのは無理があります。教会生活を始めて1年ほど経った方であれば、誰かに仕えられる側ではなく、仕える側として歩み出すべきです。そして、自分の牧者にも仕える信徒になってほしいです。
しかし、牧者の奉仕を当然のことと考えている人たちもいるようです。牧場メンバーが自分はただ仕えられることだけを望み、指一本も動かさない場合もあります。よく仕えられても、まだ足りないと不満を言うこともあります。新来者ではなく、長く教会生活をしてきた人たちがそうであるなら、本当に残念です。
家の教会は愛の共同体です。牧者が与え続け、牧場メンバーは受け取るだけなら、それは愛の共同体ではなく、慈善団体になります。牧者は任命される際、一方的に仕えることを決心し、奉仕の働きを担います。しかし牧場メンバーが仕えられることを当然と思うなら、それは間違った考え方です。
家の教会の長所の一つは、信徒一人ひとりが、頭であるキリストの体の一部(肢体)になるという点です。牧者が仕え、牧場メンバーが受け取るばかりなら、その人は機能していない肢体になってしまいます。それでは新約的な教会を築こうとする家の教会の趣旨から外れてしまいます。
伝道についても同じです。牧者だけでは伝道は成り立ちません。未信者のニーズは多様なので、牧場全体が協力しなければなりません。伝道がうまくいかない理由がここにあります。伝道を牧師の仕事だと考え、牧師に任せてしまうのです。伝道は、牧師、牧者、牧場のメンバー全員が魂の救いへの情熱に燃えているときにこそ、可能になります。わが教会に伝道がよく行われていたときは、まさにそのような雰囲気がありました。
牧者の中には、特別によく仕える人たちもいます。奉仕の賜物がある人たちです。そういう人たちの話が広まると、自分の牧者にも同じようなことを期待してしまうようです。しかし牧者たちの賜物はそれぞれ異なります。自分の牧者が他の牧者と同じように仕えてくれることを期待するのは無理があります。教会生活を始めて1年ほど経った方であれば、誰かに仕えられる側ではなく、仕える側として歩み出すべきです。そして、自分の牧者にも仕える信徒になってほしいです。
趙 南洙師