2025年 年間標語 年間標語「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1章1~9節)
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『神の御心を求めるときに注意すべきこと』 牧師コーナー(813)
信仰によって生きるとは、神の御心に従って生きることです。したがって、キリスト者にとって神の御心を求めることは非常に重要です。そして、神の御心を求めることは決して難しいことではありません。なぜなら、神の御心の大部分は聖書に明示されているからです。例えば、偽物の商品を売るか売らないかで悩む必要はありません。聖書に明確な答えがあるからです。人の物を盗むか盗まないかについても考える必要はありません。聖書がすでに答えを与えているからです。
でも、神の御心を見出すのが難しいときがあります。それは、聖書に直接書かれていない状況に直面したときです。例えば、会社のお仕事を続けるか、それとも辞めて新しい事業を始めるべきか、二者択一を迫られるときのような場合です。
聖書に明確な答えがないときは、聖霊の導きに依り頼むべきです。聖霊に頼るとき、心に平安が伴います。しかし、一つ覚えておかなければならないのは、心の平安が絶対的な基準ではないということです。聖霊の御心に反する決断をしても、自分の心に平安を感じることもあり得るからです。ハーバード大学の心理学者ウィリアム・ジェイムズが著した『宗教的経験の諸相:人間性の研究』という本には、このような例が出てきます。深刻な宗教的葛藤を経た末に無神論を選択した瞬間、正しいかどうかに関わらず心の平安を味わうことがある、というのです。
ですから、私たちが神の御心を求めるときには、聖書の御言葉と心の平安に加えて、もう一つ必要なものがあります。それが愛です。昔、誰かが送ってくれた小冊子を読んだ記憶があります。その本には、有名な伝道者ビリー・グラハム牧師や、大学生宣教団体の代表であるビル・ブライト博士など、よく知られたキリスト教指導者たちを異端だと攻撃する内容が書かれていました。聖書の多くの箇所を引用しながら、彼らがなぜ異端なのかを証明しようとしていました。
しかし私は、その書物のすべてを読む必要はないと判断しました。なぜなら、そのような文章を書いて送りつけること自体が神の御心にかなっていないと結論づけたからです。その文書には愛がなく、憎しみばかりが溢れていたからです。
信仰生活をする中で、隣人の誤った考えや行動を正さなければならない時もあります。けれども注意が必要です。たとえ聖書的な確信があったとしても、ブルドーザーのように押し通してはなりません。まず自分自身をよく省みるべきです。もし自分の心に愛がないなら、外から見れば正しく見えることであっても、それは神の御心に反していると言えるのです。
でも、神の御心を見出すのが難しいときがあります。それは、聖書に直接書かれていない状況に直面したときです。例えば、会社のお仕事を続けるか、それとも辞めて新しい事業を始めるべきか、二者択一を迫られるときのような場合です。
聖書に明確な答えがないときは、聖霊の導きに依り頼むべきです。聖霊に頼るとき、心に平安が伴います。しかし、一つ覚えておかなければならないのは、心の平安が絶対的な基準ではないということです。聖霊の御心に反する決断をしても、自分の心に平安を感じることもあり得るからです。ハーバード大学の心理学者ウィリアム・ジェイムズが著した『宗教的経験の諸相:人間性の研究』という本には、このような例が出てきます。深刻な宗教的葛藤を経た末に無神論を選択した瞬間、正しいかどうかに関わらず心の平安を味わうことがある、というのです。
ですから、私たちが神の御心を求めるときには、聖書の御言葉と心の平安に加えて、もう一つ必要なものがあります。それが愛です。昔、誰かが送ってくれた小冊子を読んだ記憶があります。その本には、有名な伝道者ビリー・グラハム牧師や、大学生宣教団体の代表であるビル・ブライト博士など、よく知られたキリスト教指導者たちを異端だと攻撃する内容が書かれていました。聖書の多くの箇所を引用しながら、彼らがなぜ異端なのかを証明しようとしていました。
しかし私は、その書物のすべてを読む必要はないと判断しました。なぜなら、そのような文章を書いて送りつけること自体が神の御心にかなっていないと結論づけたからです。その文書には愛がなく、憎しみばかりが溢れていたからです。
信仰生活をする中で、隣人の誤った考えや行動を正さなければならない時もあります。けれども注意が必要です。たとえ聖書的な確信があったとしても、ブルドーザーのように押し通してはなりません。まず自分自身をよく省みるべきです。もし自分の心に愛がないなら、外から見れば正しく見えることであっても、それは神の御心に反していると言えるのです。
趙 南洙師