2025年 年間標語 年間標語「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1章1~9節)
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『日曜日は安息日ではありません』 牧師コーナー(817)
多くのクリスチャンたちは、新約聖書で「主の日」と呼ばれている日曜日を、働くことをやめて体を休める日、つまり文字通りの「安息日」として理解しているようです。確かに神様が安息日を定められたとき、「七日目は、あなたの神、主の安息である、あなたはいかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20:10)と命じられました。その理由は、神様が六日の間に天地を創造され、七日目に休まれたため、その日を祝福し、聖なる日とされたからです(出エジプト記20:11)。
私たちが知っているように、神様は天地万物を創造されたあと、六日目に人間を造られました。順序から見れば、人間は創造されてすぐ、神の七日目を迎え、何もしない「神の安息日」を守ることになったのです。それは人間が六日間働いて疲れたから休むという意味ではありません。むしろ、自分たちが享受しているすべてが、神様の創造によって与えられたものであることを覚える日だったのです。
安息日制定に関するもう一つの教えは、申命記5章12節以降にあります。「安息日を守ってこれを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。」(申5:12)。そして、なぜ安息日に働いてはならないのかという理由が続きます。「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えなければならない。そのゆえ、あなたの神、主は安息日を守るように、あなたに命じたのである」(申5:15)。つまり、神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放(救い)してくださったことを覚える日だったのです。
ですから、罪のない人間としてこの世に来られた主イエス様は、十字架の上で全人類の罪を背負い、血を流して死なれ、その代価を払うことで、罪の奴隷であった私たちを解放(救い)してくださいました。そして、その救いが確かなものであることを示されたのが主イエスの復活でした。その復活の日こそが、安息日の翌日、すなわち日曜日だったのです。新約時代のクリスチャンたちはその日を「主の日」と呼びました。罪によってもたらされた死のくびきを打ち破られたイエスの復活こそが、真の安息を実現された出来事だったのです。だからこそ、主イエス様は「安息日の主」であると呼ばれるのです(マルコ2:28)。私たちは、日曜日を「主の日」として覚えなければなりません。日曜日は土曜の夜遅くまでメディアに没頭した後、ゆっくり寝る日ではありません。約束された聖霊が臨まれ、教会が誕生した主の日(日曜日)だからこそ、新しい被造物として再創造された私たちは、その神を覚え、礼拝をささげながら、真の安息を味わって生きるべきなのです。
私たちが知っているように、神様は天地万物を創造されたあと、六日目に人間を造られました。順序から見れば、人間は創造されてすぐ、神の七日目を迎え、何もしない「神の安息日」を守ることになったのです。それは人間が六日間働いて疲れたから休むという意味ではありません。むしろ、自分たちが享受しているすべてが、神様の創造によって与えられたものであることを覚える日だったのです。
安息日制定に関するもう一つの教えは、申命記5章12節以降にあります。「安息日を守ってこれを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。」(申5:12)。そして、なぜ安息日に働いてはならないのかという理由が続きます。「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えなければならない。そのゆえ、あなたの神、主は安息日を守るように、あなたに命じたのである」(申5:15)。つまり、神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放(救い)してくださったことを覚える日だったのです。
ですから、罪のない人間としてこの世に来られた主イエス様は、十字架の上で全人類の罪を背負い、血を流して死なれ、その代価を払うことで、罪の奴隷であった私たちを解放(救い)してくださいました。そして、その救いが確かなものであることを示されたのが主イエスの復活でした。その復活の日こそが、安息日の翌日、すなわち日曜日だったのです。新約時代のクリスチャンたちはその日を「主の日」と呼びました。罪によってもたらされた死のくびきを打ち破られたイエスの復活こそが、真の安息を実現された出来事だったのです。だからこそ、主イエス様は「安息日の主」であると呼ばれるのです(マルコ2:28)。私たちは、日曜日を「主の日」として覚えなければなりません。日曜日は土曜の夜遅くまでメディアに没頭した後、ゆっくり寝る日ではありません。約束された聖霊が臨まれ、教会が誕生した主の日(日曜日)だからこそ、新しい被造物として再創造された私たちは、その神を覚え、礼拝をささげながら、真の安息を味わって生きるべきなのです。
趙 南洙師