2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
『子どもをむちで打つべきか?』牧師コーナー(74)
箴言23:13-14「子供を懲らしめる(戒める)ことを差し控えてはならない。むちで打っても、死ぬことはない。あなたがむちでその子を打つなら、その子のいのちをよみから救い出すことができる。」
私は今年で40ですが、私の幼少期は誰もが叱られる時にムチで打たれていた時代でした。私が幼少期を過ごした1980年代の韓国では家だけでなく、学校や塾、また教会内主日学校でも体罰は当たり前のようにありました。逆に今は韓国でも日本でも教師が体罰を与えると訴えられることになるほど時代は変わりました。この変わり目を生きる私たちは子供たちをどのように教育すべきでしょうか。
高校までは厳しい親の元で育った見た目は優等生の学生が、親の目が届かない大学の寮に入ると、突然毎週末酔っぱらい夜遊びをするようになった話は良く聞きます。実際に私の周りにもこう言う人は何人もいました。高3までは優等生だったのに一体何が起きたのでしょうか。実は内側にあったものが外側に出ただけなのです。人は厳しくムチで治められると、内心は違っていても一応外側は優等生として育つことが出来ます。そして‘ムチ’を避ける優等生振りを習得して行くことも出来ます。しかし、そのムチから自由になった瞬間本来の姿に急変するのです。
子どもに‘ムチ’を打ちながら、無理やり「“ごめんなさい”と謝りなさい!」と叱るのは一時的に効果があるかも知れません。ムチを逃れるために子どもは嫌でも“ごめんなさい”と言うでしょう。でも、そこに本当の反省がなければ心の成熟はありません。聖書が言うムチが最終的に目指すものは、(表だけ)行儀のよい子を育てることではなく、心から自分の罪を悟り悔い改める人を育てさせることです。代えて言えば、聖書が言うムチは、子供たちに福音を悟らせるものです。そのためには親が子どもに対して絶対的な愛を示さなければなりません。‘私があなたを叱るのは、あなたを嫌っているからではない’と言うことを幼少期から教える必要があります。親が聖書的にムチを用いる教育をするなら、それが愛のムチであることを子どもにしっかりと認識させるべきであります。
私たちが目指す子育ては律法を守れるパリサイ人を育てるものではありません。何よりイエスキリストの愛と神の恵みを知ることによって、心変えられた子どもを育てることが子育ての目標です。そのために叱る時は、理性を失った怒りを持ってではなく、愛と恵みを持って叱れるように努めましょう。
チョ・ドリュー師