2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
『ヘブル4:15』牧師コーナー(83)
人にとって一番辛いのは誰にも自分の経験や感情を理解してもらえないことです。異邦人が外国の町で差別を受けていたとしても、それを共感してくれる人が誰もいない限り、とても寂しい思いをします。皆さんにもそんな経験があるかも知れません。悔しい思いを他人に打ち明けたときに、全くその悔しさを分かってもらえないのであれば、何と辛いことでしょうか。愛の表現で相手の心をつかむ最も効果的なのは同情だと言えます。
ヘブル4章に出る同情と言う単語はギリシャ語でsympaticoと言う‘共に苦しむ’と言う単語です。泣いている人の隣で共に悲しむことを意味します。私が牧師をやっていて一番涙が出るほど感動を覚える瞬間は、信徒リーダーたちが牧師の立場を理解してくれる時です。 どんなに尊敬されると言われても、牧師の立場が人々の批判のまとになり、時には本当に‘やりづらい立場’なのかを理解されることよりほっとする安堵感はありません。なので、私が信徒リーダーに良くお願いすることは、教会内にある難しい面談に同席してもらうことです。そして、そんな信徒リーダーたちとは教会が直面している課題を隠すことなく分かち合うことが良くあります。それは、牧師として同情心を求める行動です。そして、信徒リーダーたちが解決案を持ってなくても、それを共感(‘分かってもらえた’と言う経験)してくれることが牧師にとっては大きな力になります。
聖書は、2000年前に人の体を持ってこの地上に来られたイエスキリストは私たちに同情されることの出来る方だと主張します。そして、全ての試みを通られた方として私たちの弱さを深く理解される方であると言います。サマリヤの女には心の渇きを満たす命の水を、そして人々に受け入れられることに渇いていたザアカイには友情をお与えになりました。さらに、人なられたイエスキリストは人々に誤解され、憎まれ、親しい友人たちに裏切られ、人種差別の被害者となり、最終的には不正な形で処刑されてしまいました。だから、イエスキリストは私たちの痛みを誰よりも良く知っておられる方です。
イエスキリストの同情心が最も慰めになるのは、イエスは私たちが自らの力で罪を打ち砕くことが出来ないことを知っておられる方です。だから、イエスキリストは私たちの‘身代わり’になられるためにこの地上に来られたのです。罪を犯した不完全な者が神の御前に出られる理由は私たちを同情心で包んでくれたイエスの愛があったからであります。皆さんは今どんな痛みを抱えていますか?どんな罪をまだ告白出来ていませんか?今年のクリスマスもイエスの同情される愛を覚え、もう一度私たちの弱さを告白して神の前に出ていきましょう。
チョ・ドリュー師