2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『魂の救いを妨げる私たちの中の障害物』牧師コーナー(591)
とても残念なことですが、日本の教会の現状は、魂の救いのための情熱と能力が失われたままです。日本宣教の不振に対する内外的な原因と分析の文章に共感しますが、問題は、このような宣教の暗い現状を克服するために、私たち自らが探さなければならないと思います。
私たちは魂の救いのために、この世を変えることができる二つの武器を神様からいただきました。真理である聖書のみことばと、真理の御霊である聖霊の力です。欺きの世の壁を砕き、滅びの牢獄に閉じ込められた魂を救うためには、みことばと聖霊の力によってこの世界を変えなければなりません。
しかし、残念なことに、このような魂の救いの召命があるにもかかわらず、サタンの戦略に欺かれ無気力になり、教会の信徒が密かにサタンの戦略を助ける役割を果たすという心の痛い現実があります。
サタンの戦略の1番目は、スローガンを叫ばせることです。時間も富も関心も捧げずに人生を生きているのに、その言葉さえ叫んでいれば魂が救われると錯覚させます。魂を救うための教えと学びさえあれば良いと思わせるのです。魂の救いが存在目的である教会の中であっても、このように悲惨な状況に陥ってしまう姿を見る時があります。
サタンの戦略の2番目は、生き方を通して伝道すればいいから、というものです。実際には伝道はしておらず、未信者を見ても気の毒に思ったり、かわいそうに思ったりもしません。言葉で強引にアプローチするのではなく、もっと効果的に、生き方を通して伝道をするからと言い訳しながら、現実では魂の救いのための具体的な関心も、情熱も注ぎません。もちろん生き方を通した伝道はとても重要でしょう。しかし、生き方を通した伝道のためには、必ず、伝道する意欲と福音のみことばを持っていなければなりません。
サタンの戦略の3番目は、「やってみたけど、できませんでした。」という敗北意識です。魂の救いは激しい霊的戦いです。魂の救いを諦めるということは、教会の存在目的自体を諦めるということです。絶えず戦い続ければ、必ず神様は、私たちを通して魂の救いの勝利を得させてくださいます。失った魂のために、十字架上で叫ばれたキリストの声が、私たちの心の中に響きわたることを願います。
サタンの戦略の4番目は、道徳的成長を強調し、キリストの福音を宗教的修業に変えることです。魂を救う伝道より、聖化が重要であると教理的教えを優先させます。これも倫理が成長だという欺きです。罪人が救われ、神様の子どもになることこそが、神様に立ち帰る聖化であり、神の国の到来なのです。
私たちは魂の救いのために、この世を変えることができる二つの武器を神様からいただきました。真理である聖書のみことばと、真理の御霊である聖霊の力です。欺きの世の壁を砕き、滅びの牢獄に閉じ込められた魂を救うためには、みことばと聖霊の力によってこの世界を変えなければなりません。
しかし、残念なことに、このような魂の救いの召命があるにもかかわらず、サタンの戦略に欺かれ無気力になり、教会の信徒が密かにサタンの戦略を助ける役割を果たすという心の痛い現実があります。
サタンの戦略の1番目は、スローガンを叫ばせることです。時間も富も関心も捧げずに人生を生きているのに、その言葉さえ叫んでいれば魂が救われると錯覚させます。魂を救うための教えと学びさえあれば良いと思わせるのです。魂の救いが存在目的である教会の中であっても、このように悲惨な状況に陥ってしまう姿を見る時があります。
サタンの戦略の2番目は、生き方を通して伝道すればいいから、というものです。実際には伝道はしておらず、未信者を見ても気の毒に思ったり、かわいそうに思ったりもしません。言葉で強引にアプローチするのではなく、もっと効果的に、生き方を通して伝道をするからと言い訳しながら、現実では魂の救いのための具体的な関心も、情熱も注ぎません。もちろん生き方を通した伝道はとても重要でしょう。しかし、生き方を通した伝道のためには、必ず、伝道する意欲と福音のみことばを持っていなければなりません。
サタンの戦略の3番目は、「やってみたけど、できませんでした。」という敗北意識です。魂の救いは激しい霊的戦いです。魂の救いを諦めるということは、教会の存在目的自体を諦めるということです。絶えず戦い続ければ、必ず神様は、私たちを通して魂の救いの勝利を得させてくださいます。失った魂のために、十字架上で叫ばれたキリストの声が、私たちの心の中に響きわたることを願います。
サタンの戦略の4番目は、道徳的成長を強調し、キリストの福音を宗教的修業に変えることです。魂を救う伝道より、聖化が重要であると教理的教えを優先させます。これも倫理が成長だという欺きです。罪人が救われ、神様の子どもになることこそが、神様に立ち帰る聖化であり、神の国の到来なのです。
趙 南洙師