2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『教会に通わないクリスチャン?』牧師コーナー(607)
「イエス様は信じています。けれど、あえて教会に行かなくても、一人で信仰生活を守ればよいではないですか」と話す人に会うことがあります。そのような方は、「聖書には『教会に通いなさい』と書かれていないから、教会に行かなくても一人でしっかり信仰をもてばよいでしょう?」と言います。ですが本当にそうなのでしょうか。
これは聖書を知らないゆえに生まれる誤解です。事実、聖書は最初から最後まで、教会に向けての神様の願いが語られています。旧約聖書に「教会」という単語は書かれていないと思うかもしれません。ですが、神様はイスラエルをご自分の民として選び、この世において神の国を現す祭司たちとして、つまり、信仰共同体として召してくださいました。そして、イスラエルの民がこの地においてその召命を全うすることを願われました。
しかし、 イスラエルは神様の召命に応えることが出来ませんでした。新約時代になって教会が建てられ、神は人々が神の民として、また聖なる国の祭司たちとして、召命を全うすることを願っていらっしゃいます(1ペテロ2:9)。新約時代においても、私たちへの神様の願いは、個人の信仰を超えた神の国の共同体の一員としての召命であります。そして、新約聖書の全てのみことばもまた、個人を超えた、共同体へのみことばなのです。
イエス様は弟子たちに、「私はこの岩(弟子たちの信仰告白)の上に、私の教会を建てます(マタイ16:18)。」と言いました。使徒パウロもまた、「教会はキリストのからだ(エペソ1:23)」であると言い、イエス様は「からだである教会のかしらです(コロサイ1:18)」と語っています。教会は イエス様の全てであると言っても過言ではありません。つまり、教会を無視することは、イエス様を無視することになるのです。イエス様のからだである教会を無視しながら、どうして「イエス様は信じています。」と、「イエス様を愛しています。」と言えるのでしょうか。
聖書は、私たちが死からいのちに移ったことを知っているのは、「兄弟を愛しているから(1ヨハネ3:14)」だと語ります。クリスチャンであるなら、自分を救い出してくださった神様の恵みに感謝するようになります。そして、その恵みに応えたいという思いによって、主のからだである教会を愛し、仕えるようになるのです。
「教会に通う」ことは、主日礼拝に参加する以上のことを意味します。それは、礼拝をはじめ、交わり、訓練、奉仕、伝道、宣教を共にすることなのです。互いに主の愛を持って交わり、聖書を学び、仕え合い、奉仕する。そして、心をひとつにして魂の救いのために励む共同体であることこそが、「教会に通う」ことなのです。
これは聖書を知らないゆえに生まれる誤解です。事実、聖書は最初から最後まで、教会に向けての神様の願いが語られています。旧約聖書に「教会」という単語は書かれていないと思うかもしれません。ですが、神様はイスラエルをご自分の民として選び、この世において神の国を現す祭司たちとして、つまり、信仰共同体として召してくださいました。そして、イスラエルの民がこの地においてその召命を全うすることを願われました。
しかし、 イスラエルは神様の召命に応えることが出来ませんでした。新約時代になって教会が建てられ、神は人々が神の民として、また聖なる国の祭司たちとして、召命を全うすることを願っていらっしゃいます(1ペテロ2:9)。新約時代においても、私たちへの神様の願いは、個人の信仰を超えた神の国の共同体の一員としての召命であります。そして、新約聖書の全てのみことばもまた、個人を超えた、共同体へのみことばなのです。
イエス様は弟子たちに、「私はこの岩(弟子たちの信仰告白)の上に、私の教会を建てます(マタイ16:18)。」と言いました。使徒パウロもまた、「教会はキリストのからだ(エペソ1:23)」であると言い、イエス様は「からだである教会のかしらです(コロサイ1:18)」と語っています。教会は イエス様の全てであると言っても過言ではありません。つまり、教会を無視することは、イエス様を無視することになるのです。イエス様のからだである教会を無視しながら、どうして「イエス様は信じています。」と、「イエス様を愛しています。」と言えるのでしょうか。
聖書は、私たちが死からいのちに移ったことを知っているのは、「兄弟を愛しているから(1ヨハネ3:14)」だと語ります。クリスチャンであるなら、自分を救い出してくださった神様の恵みに感謝するようになります。そして、その恵みに応えたいという思いによって、主のからだである教会を愛し、仕えるようになるのです。
「教会に通う」ことは、主日礼拝に参加する以上のことを意味します。それは、礼拝をはじめ、交わり、訓練、奉仕、伝道、宣教を共にすることなのです。互いに主の愛を持って交わり、聖書を学び、仕え合い、奉仕する。そして、心をひとつにして魂の救いのために励む共同体であることこそが、「教会に通う」ことなのです。
趙 南洙師