2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『聖霊の実は徳目ではありません』 牧師コーナー(660)
今日のコラムは、我が教会の全信徒が共に成長できることを望みつつ、私が尊敬する方の文書から引用して書きます。
クリスチャンであるなら、誰でもキリストの似姿に変えられることを願っているのではないでしょうか。しかし、イエスさまの似姿に変えられた自分の姿が頭に思い浮かばないのなら、それはまるで、的がある場所を知らずに命中させようと弓を射る人のようだと言えるでしょう。
使徒パウロは、ガラテヤ人への手紙4:19において「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と書きました。そして続く5章においては「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(5:22~23)」と言いました。
このような実りは、ギリシャ哲学者たちが求めた徳目ではありません。これはイエスさまの品性を表す内容です。そして、キリストの品性が私たちのうちに形造られる時、私たちに現れる品性について使徒パウロは書き連ねているのです。
キリストの品性は、私たち自身が懸命に聖書を研究したり、または宗教的修養を経たりすれば得られるというものではありません。それは私たちの人生の中で働いてくださる聖霊によって与えられる結果なのです。そのため、この品性を聖霊の実と言うのです。
聖霊の実がイエスさまの品性を現す描写であるなら、これらの実りは関係の中に結ばれるものだと認識すべきです。例えば、「平安」の場合、人の内側の平安というより、人との関係の中で与えられる平和だと理解するのが正しいでしょう。互いの性格が合わずに共にすることが難しいけれど、互いに愛し合うことが平和です。これは人間の意志の力によってできることではありません。御霊の働きがあるからこそ与えられる平和です。だからこそ聖霊の実なのです。
「喜び」もまた、内側で味わう喜びの意味も含まれているかもしれませんが、人と共に味わう喜びとして理解するのが正しいでしょう。苦しみの中にいる隣人のために共に苦しむのはある程度可能です。しかし、自分に与えられていない祝福が隣人に与えられた時、心から喜ぶことは難しいのではないでしょうか。それは聖霊の働きによってのみ可能になるのです。だからこそ聖霊の実なのです。
このような聖霊の実が私たちの人生に与えられた時、私たちはキリストの似姿に変えられたと言います。ですから聖霊の実は、徳目ではなく、私たちの人生の中で働いてくださる聖霊によって与えられる結果なのです。願わくは、皆さんの関係(交わり)の中に、多くの聖霊の実が与えられることを祈ります。
クリスチャンであるなら、誰でもキリストの似姿に変えられることを願っているのではないでしょうか。しかし、イエスさまの似姿に変えられた自分の姿が頭に思い浮かばないのなら、それはまるで、的がある場所を知らずに命中させようと弓を射る人のようだと言えるでしょう。
使徒パウロは、ガラテヤ人への手紙4:19において「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と書きました。そして続く5章においては「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(5:22~23)」と言いました。
このような実りは、ギリシャ哲学者たちが求めた徳目ではありません。これはイエスさまの品性を表す内容です。そして、キリストの品性が私たちのうちに形造られる時、私たちに現れる品性について使徒パウロは書き連ねているのです。
キリストの品性は、私たち自身が懸命に聖書を研究したり、または宗教的修養を経たりすれば得られるというものではありません。それは私たちの人生の中で働いてくださる聖霊によって与えられる結果なのです。そのため、この品性を聖霊の実と言うのです。
聖霊の実がイエスさまの品性を現す描写であるなら、これらの実りは関係の中に結ばれるものだと認識すべきです。例えば、「平安」の場合、人の内側の平安というより、人との関係の中で与えられる平和だと理解するのが正しいでしょう。互いの性格が合わずに共にすることが難しいけれど、互いに愛し合うことが平和です。これは人間の意志の力によってできることではありません。御霊の働きがあるからこそ与えられる平和です。だからこそ聖霊の実なのです。
「喜び」もまた、内側で味わう喜びの意味も含まれているかもしれませんが、人と共に味わう喜びとして理解するのが正しいでしょう。苦しみの中にいる隣人のために共に苦しむのはある程度可能です。しかし、自分に与えられていない祝福が隣人に与えられた時、心から喜ぶことは難しいのではないでしょうか。それは聖霊の働きによってのみ可能になるのです。だからこそ聖霊の実なのです。
このような聖霊の実が私たちの人生に与えられた時、私たちはキリストの似姿に変えられたと言います。ですから聖霊の実は、徳目ではなく、私たちの人生の中で働いてくださる聖霊によって与えられる結果なのです。願わくは、皆さんの関係(交わり)の中に、多くの聖霊の実が与えられることを祈ります。
趙 南洙師