2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『なぜ、収穫感謝祭を守るのですか?』 牧師コーナー(665)
今日は収穫感謝礼拝です。農業生活とあまり関わりがなく、産業都市で生活する私たちが収穫感謝礼拝を守ることに、いまだに慣れない方もいらっしゃると思います。我が教会が収穫感謝礼拝を守っているのは、次の二つの理由からです。
まず第一に、神さまのみことばである聖書が祭りを行うようにと語っているからです。出エジプト23章を見ると、三大祭りである、過越の祭り、刈り入れの祭り、収穫祭を行うようにと神が命じています。過越の祭りは、イスラエルがエジプトから救われたことを記念して覚える祭りです。新約時代を生きる私たちも、子羊イエス・キリストの血潮により救われたことを覚え、記念することは、とても大切なことです。同時に、救いによって導かれた約束の地で、農作をして得た麦と小麦の収穫、その春の初穂をもって感謝することが刈り入れの祭りです。また、秋に得るぶどう、いちじく、オリーブの実を収穫し、蓄える時に感謝することが収穫祭です。もちろん、律法から自由になった私たちが旧約時代の祭りにこだわる必要はありません。しかし、律法を成就されたキリストのみこころに倣う、霊的な意味までも忘れてはいけないと思います。
第二に、感謝こそ私たちの人生が存在する理由だからです。私たちは過ぎた一週間、「一生 感謝」というタイトルで三つ撚り特別早天祈祷会を行い、祈る時間を持ち、さまざまな角度から感謝に対する深い意味を黙想してきました。そして感謝する人生こそ、自分が存在している意味だと思わされました。罪人であった私が、主イエスにより救われ、さらには福音を伝える伝道者(牧師)として立てられ、今日まで守られ、導かれてきた人生こそ、どのような言葉でも言いあらわせない感謝だと思います。私という存在は、感謝を持って神に喜ばれる人生を生きるべきであると、ずっと思わされた一週間でした。
神に感謝すべきことがあまりに多く、只々感謝です。皆さんの牧師として立てられたことも、コロナ禍により縮小していた私たちの人生が、再び力を得て回復してきていることも、このような時期に次世代のための学校を建て、仕えている夢のような現実も、これら全てが只々感謝です。各自の事情により教会から離れていく家族がいらっしゃり寂しさもありますが、また新たに生活する場所で、変わらず主に仕えていかれると思いますから感謝です。そして救われて加えられる新たな信徒もいらっしゃり、神に感謝せずにはいられません。
まず第一に、神さまのみことばである聖書が祭りを行うようにと語っているからです。出エジプト23章を見ると、三大祭りである、過越の祭り、刈り入れの祭り、収穫祭を行うようにと神が命じています。過越の祭りは、イスラエルがエジプトから救われたことを記念して覚える祭りです。新約時代を生きる私たちも、子羊イエス・キリストの血潮により救われたことを覚え、記念することは、とても大切なことです。同時に、救いによって導かれた約束の地で、農作をして得た麦と小麦の収穫、その春の初穂をもって感謝することが刈り入れの祭りです。また、秋に得るぶどう、いちじく、オリーブの実を収穫し、蓄える時に感謝することが収穫祭です。もちろん、律法から自由になった私たちが旧約時代の祭りにこだわる必要はありません。しかし、律法を成就されたキリストのみこころに倣う、霊的な意味までも忘れてはいけないと思います。
第二に、感謝こそ私たちの人生が存在する理由だからです。私たちは過ぎた一週間、「一生 感謝」というタイトルで三つ撚り特別早天祈祷会を行い、祈る時間を持ち、さまざまな角度から感謝に対する深い意味を黙想してきました。そして感謝する人生こそ、自分が存在している意味だと思わされました。罪人であった私が、主イエスにより救われ、さらには福音を伝える伝道者(牧師)として立てられ、今日まで守られ、導かれてきた人生こそ、どのような言葉でも言いあらわせない感謝だと思います。私という存在は、感謝を持って神に喜ばれる人生を生きるべきであると、ずっと思わされた一週間でした。
神に感謝すべきことがあまりに多く、只々感謝です。皆さんの牧師として立てられたことも、コロナ禍により縮小していた私たちの人生が、再び力を得て回復してきていることも、このような時期に次世代のための学校を建て、仕えている夢のような現実も、これら全てが只々感謝です。各自の事情により教会から離れていく家族がいらっしゃり寂しさもありますが、また新たに生活する場所で、変わらず主に仕えていかれると思いますから感謝です。そして救われて加えられる新たな信徒もいらっしゃり、神に感謝せずにはいられません。
趙 南洙師