2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『新約教会の回復を点検しましょう。』 牧師コーナー(675)
我が教会が目指している家の教会(牧場)は、新約教会を回復し、魂の救いと弟子づくりを最優先としています。すなわち教会が始まった当時、新約教会の本来の姿の回復を追い求めているのです。これは聖書に書いてある通り、聖書を信じ、従って生きるという信仰そのものをシンプルに追い求めるということです。
イエス様が「実によって見分けることになる」(マタイ7:20)とおっしゃったように、主張や思想が真実で聖書的であるかどうかは、その実によって判断することができます。
従って、我が教会が新約教会の回復を追い求めながら正しく進んでいるのかどうか、その都度、確認すること(中間点検)は必要なことです。この牧師を含め、共に教会を建て上げていく皆さんと一緒に、以下のことを問いかけたいと思います。
(1)魂の救いが起こされているか?
信じるようにはまったく見えなかった人がイエス様を信じ、魂の救いの実が結ばれているならば、それは新約教会に近いと言えるでしょう。しかし、魂の救いの実りがないことに対して「コロナ禍だから」という言い訳をするならば、主が建てた教会本来の目的にあった実を結んでいないということになります。新約教会の聖徒たちは、もっと苦しい迫害の中であっても魂の救いを証しし続けたからです。
(2)信徒の中で変化が起きているか?
変わるのは難しいと思われていた信徒に新たな変化が起き、その人生の中で今までにはなかった実を結んでいるならば、新約教会に近いと言えるでしょう。我が教会の多くの信徒の皆さんが、新たな変化を経験されているのはとても感謝です。以前は自己中心的だった人が、救われ隣人に仕えるようになり、隣人の苦しみを共に負い、またもっと神さまの助けが必要な時はとりなし祈り、そのような変化を経験しているからです。しかし、イエス様を信じていると言いながら何の変化もないならば、そのような牧場やクリスチャンは、聖書的な信仰生活をしているとは言い難いでしょう。
(3)教会生活に喜びがあるか?
新約教会は「喜びの共同体」でした(使徒2:46, 8;8, 13:52)。教会を導く聖霊の実の一つが「喜び」だからです(ガラテヤ5:22)。喜びがなく、ただの義務感で教会生活を続けているならば、その教会と牧場や信徒は聖書的な信仰生活とは言えません。私たち皆が、我が教会を聖書的な目で点検していきましょう。
イエス様が「実によって見分けることになる」(マタイ7:20)とおっしゃったように、主張や思想が真実で聖書的であるかどうかは、その実によって判断することができます。
従って、我が教会が新約教会の回復を追い求めながら正しく進んでいるのかどうか、その都度、確認すること(中間点検)は必要なことです。この牧師を含め、共に教会を建て上げていく皆さんと一緒に、以下のことを問いかけたいと思います。
(1)魂の救いが起こされているか?
信じるようにはまったく見えなかった人がイエス様を信じ、魂の救いの実が結ばれているならば、それは新約教会に近いと言えるでしょう。しかし、魂の救いの実りがないことに対して「コロナ禍だから」という言い訳をするならば、主が建てた教会本来の目的にあった実を結んでいないということになります。新約教会の聖徒たちは、もっと苦しい迫害の中であっても魂の救いを証しし続けたからです。
(2)信徒の中で変化が起きているか?
変わるのは難しいと思われていた信徒に新たな変化が起き、その人生の中で今までにはなかった実を結んでいるならば、新約教会に近いと言えるでしょう。我が教会の多くの信徒の皆さんが、新たな変化を経験されているのはとても感謝です。以前は自己中心的だった人が、救われ隣人に仕えるようになり、隣人の苦しみを共に負い、またもっと神さまの助けが必要な時はとりなし祈り、そのような変化を経験しているからです。しかし、イエス様を信じていると言いながら何の変化もないならば、そのような牧場やクリスチャンは、聖書的な信仰生活をしているとは言い難いでしょう。
(3)教会生活に喜びがあるか?
新約教会は「喜びの共同体」でした(使徒2:46, 8;8, 13:52)。教会を導く聖霊の実の一つが「喜び」だからです(ガラテヤ5:22)。喜びがなく、ただの義務感で教会生活を続けているならば、その教会と牧場や信徒は聖書的な信仰生活とは言えません。私たち皆が、我が教会を聖書的な目で点検していきましょう。
趙 南洙師