2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『神の御声を聞くために』 牧師コーナー(676)
私は毎朝、決まった時間に日々のみことばの黙想を通して神の御声を聞く時を設けています。みことばから、神様はどのようなお方で、何を望んでおられるか、また、何を命じておられるのかを黙想します。そして、神様に示された私の感情や思いなどを神に委ねて、神の導く道を確認します。
先日、尊敬していたC先生から、日常生活の中で神様のかそけき御声を聞く方法を具体的に分かち合っていただきました。その内容を皆様にもお伝えしますので、今までの黙想の時と比べてみてください。
「理由なき心配、恐れ、絶望感などに襲われる時があります。このような時に、私は神様との時間を取り、机に座ります。ノートを出して、神様との会話の形で頭に浮かぶ思いを書き始めます。私が話して、神様が答えてくださるという形です。
私の思いを書く時には、すべて包み隠さず書きます。そして書いているうちに、神様から質問されたり、異議を示されたりすると、段落を変えて書いていきます。また、神様の御声を書き終えると、私の順番になります。訴えたり、反論したりもします。このように神様との会話を文字化していきます。
このように書いていると、そのうち書く言葉がなくなる時がきます。そして、なぜ感情が乱れていたのかという理由に気づき、今、自分がとるべき姿勢について教えられます。なぜなら神の御声を聞いたからです。
神様は、昨日も、今日も、私たちに話しかけておられます。私たちに聞こえるような声で話されることはほとんどありませんが、感覚的に、思いを通して話されます。このように神の御声はかすかな細い声です。ですから、思い煩い、感情の高ぶりが激しい時には聞こえてきません。このような時には、机に座って、文字にしながら神様と話していくと、乱れていた心が静まり、整えられて、神の御声が聞こえてきます。
自ら書いた文章を再び読んで見ると、自分をさばいて批判している声があったり、反対に肯定的で平和な声があったりすることに気づきます。さばいて批判する声は、神の御声のように思えますが、実はサタンの声であって、肯定的で平和な声だけが神の御声です。
このような練習を通して、自分の思いとサタンの偽り、そして神の御声が見分けられる力を鍛えていくと、机に座って文字にしなくても日常の中で神の御声を聞けるようになります。」
先日、尊敬していたC先生から、日常生活の中で神様のかそけき御声を聞く方法を具体的に分かち合っていただきました。その内容を皆様にもお伝えしますので、今までの黙想の時と比べてみてください。
「理由なき心配、恐れ、絶望感などに襲われる時があります。このような時に、私は神様との時間を取り、机に座ります。ノートを出して、神様との会話の形で頭に浮かぶ思いを書き始めます。私が話して、神様が答えてくださるという形です。
私の思いを書く時には、すべて包み隠さず書きます。そして書いているうちに、神様から質問されたり、異議を示されたりすると、段落を変えて書いていきます。また、神様の御声を書き終えると、私の順番になります。訴えたり、反論したりもします。このように神様との会話を文字化していきます。
このように書いていると、そのうち書く言葉がなくなる時がきます。そして、なぜ感情が乱れていたのかという理由に気づき、今、自分がとるべき姿勢について教えられます。なぜなら神の御声を聞いたからです。
神様は、昨日も、今日も、私たちに話しかけておられます。私たちに聞こえるような声で話されることはほとんどありませんが、感覚的に、思いを通して話されます。このように神の御声はかすかな細い声です。ですから、思い煩い、感情の高ぶりが激しい時には聞こえてきません。このような時には、机に座って、文字にしながら神様と話していくと、乱れていた心が静まり、整えられて、神の御声が聞こえてきます。
自ら書いた文章を再び読んで見ると、自分をさばいて批判している声があったり、反対に肯定的で平和な声があったりすることに気づきます。さばいて批判する声は、神の御声のように思えますが、実はサタンの声であって、肯定的で平和な声だけが神の御声です。
このような練習を通して、自分の思いとサタンの偽り、そして神の御声が見分けられる力を鍛えていくと、机に座って文字にしなくても日常の中で神の御声を聞けるようになります。」
趙 南洙師