2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『神は、純度の高い従順を願っておられます』 牧師コーナー(681)
聖書全体を貫く大切な単語がいくつかありますが、その中のひとつが「従順」という言葉です。神さまは、アブラハムを招いて契約を結び、従順の大切さについて何度も教えられました。その他にも士師記の中でイスラエルの民が苦しんでいる理由、列王記に登場する王たちの治世が平安の時と不安定な時がある理由、そしてイスラエルの民が囚人として捕囚された理由、これら全ては従順に関わる問題であると主は語られます。
何より、私たちに救いが与えられたのは主イエスの十字架の従順の故でした。新約聖書はもっと積極的な従順を求めています。子どもは親に、妻は夫に、若者は大人に、しもべは主人に、民は統治者と全ての制度に、信徒は指導者たちに従うことを教えています。そのため従順は主を信じる全ての人が求めるべき、信仰の実践的な姿であり、信仰の尺度だと言えます。いくつかの従順の姿を分かち合いたいと思います。
第一は、思考の従順です。私たちの強い自我は、従うことを妨げます。聖書の学びでは全てを理解していたのにも関わらず、自我は最後の瞬間「いや、私の考えは違う」という不信仰を与えます。VIPだけではありません。全ての人が同じです。恵まれて決心しようとする時「いや、ちょっと待って!自分が何者だというのか」という強い自我から生まれる思考の不従順が、神の導きに私たちの人生を委ねようとするのを妨げます。
第二は、知識(哲学)の従順です。私たちはどれほどたくさんのことを思考しているでしょう。そのため、聖書を読んでいるうちに、証しを聞いているうちに、時には説教を聴くときさえも「私はそう思っていない」という哲学と思想の不従順が私たちの純粋さと霊的成長を妨げます。しかし覚えておきたいのは、私たちがもっているほとんどの哲学と思想は、他ではなく罪あるこの世から受けたものだということです。反面、聖書は神のみことばです。使徒パウロは、聖書がこのような高ぶり(知識)を打ち倒すと語りますが(Ⅰコリント10:4〜5)、信じる私たちがこのような知識により不従順することがあってはなりません。
第三は、行動の従順です。私たちは、神を愛していると告白し、正しいクリスチャンの姿を求めていながら、実際には行動できないことが多いです。「祈らなければ、聖書を読まなければ」と思いながらも行えず、言葉では「従順します」と言いつつ、従順できないことがあります。行動の従順は、私たちの力では実践するのは難しいと思います。静まる時に、語りかけてくださる神の御声を直接聞くことができますようにと願います。そうする時、私たちは従順できると信じます。
何より、私たちに救いが与えられたのは主イエスの十字架の従順の故でした。新約聖書はもっと積極的な従順を求めています。子どもは親に、妻は夫に、若者は大人に、しもべは主人に、民は統治者と全ての制度に、信徒は指導者たちに従うことを教えています。そのため従順は主を信じる全ての人が求めるべき、信仰の実践的な姿であり、信仰の尺度だと言えます。いくつかの従順の姿を分かち合いたいと思います。
第一は、思考の従順です。私たちの強い自我は、従うことを妨げます。聖書の学びでは全てを理解していたのにも関わらず、自我は最後の瞬間「いや、私の考えは違う」という不信仰を与えます。VIPだけではありません。全ての人が同じです。恵まれて決心しようとする時「いや、ちょっと待って!自分が何者だというのか」という強い自我から生まれる思考の不従順が、神の導きに私たちの人生を委ねようとするのを妨げます。
第二は、知識(哲学)の従順です。私たちはどれほどたくさんのことを思考しているでしょう。そのため、聖書を読んでいるうちに、証しを聞いているうちに、時には説教を聴くときさえも「私はそう思っていない」という哲学と思想の不従順が私たちの純粋さと霊的成長を妨げます。しかし覚えておきたいのは、私たちがもっているほとんどの哲学と思想は、他ではなく罪あるこの世から受けたものだということです。反面、聖書は神のみことばです。使徒パウロは、聖書がこのような高ぶり(知識)を打ち倒すと語りますが(Ⅰコリント10:4〜5)、信じる私たちがこのような知識により不従順することがあってはなりません。
第三は、行動の従順です。私たちは、神を愛していると告白し、正しいクリスチャンの姿を求めていながら、実際には行動できないことが多いです。「祈らなければ、聖書を読まなければ」と思いながらも行えず、言葉では「従順します」と言いつつ、従順できないことがあります。行動の従順は、私たちの力では実践するのは難しいと思います。静まる時に、語りかけてくださる神の御声を直接聞くことができますようにと願います。そうする時、私たちは従順できると信じます。
趙 南洙師