2024年 年間標語 年間標語 「神体験の教会」(詩篇34篇8節)
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『疲れを解消する方法』 牧師コーナー(382)
多くの人が疲れを感じています。職場で、学校で、さらには教会でまでも疲れを感じる人がいます。このような疲れの原因は何でしょうか。心理学者のハート・フィールドはこのように言っています。「私たちを苦しめる疲れの大半の原因は、精神的なところにある。純粋に肉体的な原因から来る疲労は、今日において非常に稀である」この言葉に同意しようが、しまいが、今日の現代人が感じる疲れの特徴はじつはほとんどが霊的なものなのです。
だからと言って「疲れはよくない、正常でもない」と言うことはできません。疲れは悪いものでも良いものでもありません。人間は限界のある肉体をもって生きています。肉体が負いきれないほどの量の仕事をすれば負荷がかかり、当然疲れるのです。
そうならば、このような疲れへの神様の処方箋は何でしょうか。聖書はこのように言っています。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル12:3)。このみことばは、わたしたちが疲れることもあるが、疲れのせいで落ち込むことがないように、イエスさまを考えなさいという意味です。
ある意味、神様は的外れな答えをしておられるようです。疲れたら環境を改善しなさいとか、もう少し楽に生きられる方法を教えてくれるなど、具体的な処方箋を与えてくれれば良いのにという気がしますが「イエス様を考えなさい」と言うのです。なぜ神様は疲れた時にイエス様を考えなさいと言われるのでしょうか。
イエス様も私たちが感じている疲れを同じように味わい克服された経験者だからです。主は私たちが疲れている理由や原因をご存じだからこそ解消する方法もお持ちです。私たちが疲れる時、主を「考えなさい」という言葉には二つの意味があります。「比べなさい」と「黙想しなさい」という二つです。イエス様がになった生涯の疲れと自分が直面している状況を比べ、そのイエス様を心に迎えて深く黙想するなら、イエス様が人生の慰めとなり、近づいてきてくださるのです。
イエス様によって神様は私たちに復活の栄光を約束されたのです。十字架は恥の象徴です。しかし、この悲惨で侮辱的な死をイエス様が拒まなかったのは十字架の後に復活の栄光がおとずれるからでした。イエス様は罪と死の苦痛に勝利され、すべての人を罪から救われる栄光に思いを向けられました。それによりイエス様は十字架の前で落ち込んだり、絶望したりしませんでした。よみがえられた主、天と地をすべてご支配しておられる主、これからこの世を裁かれ、すべての人類の不幸を幸いに変えられる主、すべての人生のため息とうらみを解決される主、その主イエスを考えるなら、落ち込む理由はひとつもありません。「今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(ローマ8:18)
神様のみことばを心に刻み、イエス様を考えてみましょう。一日にたった10分だけでもイエス様を考えてみましょう。イエス様を絶えず考えられる時間を聖別しましょう。すると、主が疲れている私たちのたましいに新しい力を与えてくださるでしょう。
だからと言って「疲れはよくない、正常でもない」と言うことはできません。疲れは悪いものでも良いものでもありません。人間は限界のある肉体をもって生きています。肉体が負いきれないほどの量の仕事をすれば負荷がかかり、当然疲れるのです。
そうならば、このような疲れへの神様の処方箋は何でしょうか。聖書はこのように言っています。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル12:3)。このみことばは、わたしたちが疲れることもあるが、疲れのせいで落ち込むことがないように、イエスさまを考えなさいという意味です。
ある意味、神様は的外れな答えをしておられるようです。疲れたら環境を改善しなさいとか、もう少し楽に生きられる方法を教えてくれるなど、具体的な処方箋を与えてくれれば良いのにという気がしますが「イエス様を考えなさい」と言うのです。なぜ神様は疲れた時にイエス様を考えなさいと言われるのでしょうか。
イエス様も私たちが感じている疲れを同じように味わい克服された経験者だからです。主は私たちが疲れている理由や原因をご存じだからこそ解消する方法もお持ちです。私たちが疲れる時、主を「考えなさい」という言葉には二つの意味があります。「比べなさい」と「黙想しなさい」という二つです。イエス様がになった生涯の疲れと自分が直面している状況を比べ、そのイエス様を心に迎えて深く黙想するなら、イエス様が人生の慰めとなり、近づいてきてくださるのです。
イエス様によって神様は私たちに復活の栄光を約束されたのです。十字架は恥の象徴です。しかし、この悲惨で侮辱的な死をイエス様が拒まなかったのは十字架の後に復活の栄光がおとずれるからでした。イエス様は罪と死の苦痛に勝利され、すべての人を罪から救われる栄光に思いを向けられました。それによりイエス様は十字架の前で落ち込んだり、絶望したりしませんでした。よみがえられた主、天と地をすべてご支配しておられる主、これからこの世を裁かれ、すべての人類の不幸を幸いに変えられる主、すべての人生のため息とうらみを解決される主、その主イエスを考えるなら、落ち込む理由はひとつもありません。「今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」(ローマ8:18)
神様のみことばを心に刻み、イエス様を考えてみましょう。一日にたった10分だけでもイエス様を考えてみましょう。イエス様を絶えず考えられる時間を聖別しましょう。すると、主が疲れている私たちのたましいに新しい力を与えてくださるでしょう。